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二度寝のおかげで一日が楽しくなった話

「早起きは三文の徳」ということわざを家訓にしている家庭が一体どれくらいあるのか知らないが、早起きが現代で最も推奨されているライフハックの一つであることは言うまでもない。

早起きに関する書籍がいくつも書店に陳列され、多くの成功した経営者が早起きを公言している。早起きは健康にいいばかりでなく、人生をも好転させてしまうことが科学的に証明されているらしい。

そんな科学に裏打ちされた早起きと、真逆のことをしているのが私だ。

「せっかくの休日を充実させるために早起きをしよう」という昨夜の決意も虚しく、今日も私は二度寝の末、12時に起床した。最近は特に気温が下がってきたことも相まって、目が覚めても布団から出れず、起きるかどうか迷っているうちに再び寝てしまう。自粛で外出する機会が減り、人との待ち合わせ時間がなくなったことも二度寝を後押ししている。

かつての私は、このように早起きができず昼まで寝てしまうことにひどく罪悪感を覚えていた。

昼過ぎに起きると、まずは溜まっていた食器を洗ってからご飯を作る。その後再び食器を洗い、部屋の掃除をする。ここまでだけでもかなりの時間がかかる。やりたいことをやれる時間にはもう日が落ちていて、結局やらずに一日が終わる。やるべきことだけしかできなかったそんな一日になってしまったのは、自分が早起きできなかったからだと後悔する。早起きできなかったせいで、その日一日がなんとなく過ぎているように感じていた。

しかし、最近の私は、こうして昼まで寝て過ごすことに対する罪悪感が無くなったばかりか、むしろ幸福感を得るようになった。

これは私に起きた大きな変化だ。ではなぜ、そう思うようになったのか。それはとあるアニメを見たことがきっかけだった。

そもそも人が寝るのは自由であり、そのこと自体が悪いなんてことは一切ないはずだ。それなのにかつての私は、なぜ罪悪感を覚えていたのだろうか。

ニュースやネットでよく、睡眠には適切な時間があり、必要以上に寝るとむしろ体に悪いということを耳にする。1.5時間の倍数が最適な睡眠時間であるとか、8時間以上の睡眠は体に悪いということがよく言われている。

私が昼まで寝てしまうとき、わざわざ前日に夜更かしをしているわけではない。つまりそれらの言説からすると、明らかに必要以上の睡眠をとっている。そのため私はその睡眠時間を無駄だと感じてしまい、その無駄を生み出していることに罪悪感を覚えているのだ。


ある日、前々から気になっていた『ひぐらしのなく頃に』というアニメを見た。それは非常に面白く、私は一気見した。画面に食いつくようにアニメを見て、一話が終わると続きが気になって仕方がなくなり、間髪入れずに「次のエピソードへ」のボタンを押した。

視聴とボタンの押下を繰り返し、その日一日があっという間に終わった。

全25話を見終えたとき、私は達成感と幸福感に包まれた。こんなに面白いアニメを一日中見れるなんて、今日の自分はとても幸せだなと感じた。

同時に、こんなに没頭できるアニメをもっと見たいと思った。あるいはそれはアニメでなくてもいい、没頭できる何かをもっと欲しいと思った。そしてそれは、睡眠でもいいのではないかと思った。

二度寝に罪悪感を覚えていた頃の私は、睡眠を「疲れを取る」という機能として捉えていたのだと思う。その機能は睡眠時間が増えるにしたがって失われていく。機能の失った睡眠をし続けることが罪悪感へと繋がった。

しかし、平日の疲れをとるために寝ているのではなく、「平日は寝る時間が始業時間に制限されているが、休日はその制限無しに存分に睡眠を堪能できる」と捉えれば、二度寝がとても幸福なことに感じてくる。

睡眠は本来楽しいものだ。眠気を感じ、ベッドに入る。次第にウトウトしてきてリラックスしつつも気分がよくなり、そのまま眠りに落ちる。その一連の時間はとても幸福だ。一度起きて、まだ眠気が自身を包んでいる時、それを振り切って起きるのではなく、再び目を瞑る。するとすぐにウトウトが眠りに変わる。眠りに落ちるまでに数分間、再び幸福感を味わうことができる。

その睡眠を、休日は何の制約も受けずに行うことができる。目覚ましも朝礼も気にかける必要がない。そう考えることで、私は二度寝することが悪いことではなく、むしろ幸福なことだと思うようになった。

この考え方は、二度寝に対してだけでなく、生活のあらゆることにも言えるだろう。

例えば平日が仕事で忙しく、家事が休日へと回ってしまうことがある。そんなとき「せっかくの休日が家事をして終わってしまう...。」と落胆する。

しかし、そう考えずに、むしろその家事を何の制約も無しにすることができると考えれば、家事そのものを楽しむことができる。平日は時間がなく時短料理しか作ることができないが、休日は凝った料理を時間をかけて作ることができる。あるいは掃除のついでに模様替えをすることもできる。

機能ではなくそのものの楽しさにフォーカスすることで、私は罪悪感から逃れ、そして幸福になった。

さらに、楽しさにフォーカスすることでモノやコトへの態度が変わった。

これまでの自分にとって、寝ることは「疲れを取る」という機能であり、ベットや布団や枕はそのための道具だった。しかし寝ることを機能ではなく楽しさと捉えるようになったことで、寝ることが好きになった。ベットや布団や枕は、寝ることを楽しむための相棒のように感じた。

昼まで寝て起きた後、食器洗いのついでに普段は時間がなくてできないシンクの掃除もしたくなった。綺麗になったシンクを見て達成感が湧いた。朝ご飯を作ることは、作ることそのものを楽しみながら行った。部屋の掃除をしていたら見た目だけでなく匂いも綺麗にしたいと思い、ルームフレグランスを買いに行った。

「次は◯◯をしなければいけない」から「次は◯◯をしたい」と思うようにり、一日が楽しいことや好きなことで溢れるようになった。極端かもしれないが、そう思うことが増えたのは確かだ。

世の中には、正しいことややるべきことがあまりに多い。「◯◯をすれば健康になれる」、「◯◯をすれば収入が上がる」、そんな言説が飛び交っている。それらは自身の生活を豊かにする上で参考になることも多々ある。

しかし、それらに気を取られすぎてしまうと、すること全てに機能を求め、機能のないことをすることに罪悪感を覚えてしまう。バランスが大事と言えばそれまでだが、私にとっては、ほんの少し楽しいことや好きなことに目を向けることが幸せに繋がった。

私は今日この後、最近ハマっている温泉に行く予定だ。もちろんそれは体を洗うためではなく、風呂に入ることそのものを楽しむためである。休日の温泉は、時間はもちろん浴槽の狭さという制約がない。思う存分堪能できる。

相棒のタオルとともに、私は温泉へと向かった。

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