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しょんぼり。

上の写真右は、北海道出張だった同僚Aからもらったおみやげ。
左は、ほぼ同じ時期の週末に北海道に遊びに行った同僚Bからもらったおみやげ。
Bさん(50歳くらい/男性/独身)はめちゃくちゃ元気な人で、月に2回は東北・北海道か九州・沖縄に行くようにしていると言う。来週は一週間出勤しないらしいから、明日から9日間の予定で海外ではないかと想像する。
私も、爪の垢でも煎じて飲みたいものだ。

その、同僚Bが、
「父親が80(歳)を超えて、最近は歩けなくなってきて…。」
と話していた。私もそうなるのかなぁ。なるよなぁ。きっと、もっともっと早くに。左膝痛もなかなか良くならない。
帰宅直前、カーラジオで、「介護にならない歩き方」みたいな話題。そういうの、大事だよね、きっと。

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昨日持ち帰り忘れた「しょんぼりコピー」。こんなことが書いてある。

 「家族」などの身近な存在についても、同じように言えるかもしれません。文化人類学は、長年、「親族」について研究してきました。家族や親族をどう定義すべきか、ずっと議論が続いてきたのですが、最近は「血縁」などの生物学的なつながりとは異なる捉え方が一般的になってきました。
 イギリスの人類学者ジャネット・カーステンは、マレーシアの漁村では、家が炉を中心とした器のようなもので、「乳」や「食」といった物質(サブスタンス)を共有することで身体の中身が類似していくと考えられていることに注目して、「関係性 relatedness」という概念を提唱しました。
 家族は、生殖による血縁関係だけではなく、ともに暮らし、ともに食べ、養い合いながら、モノをやりとりする行為の積み重ねの先に生まれる。それは家族や親族を固定した境界としてではなく、空間を共有する中で作られていく関係性のプロセスとして捉える見方でした。
 こうした視点を採ることで、「家族」をより柔軟に捉えることが可能になります。生殖関係や血縁をもとに家族であるというよりも、空間を共有して暮らし、ともに行為を重ねることで、家族になる。(この段落の「である」と「になる」に傍点有り。)

松村圭一郎「器としての『わたしたち』」

昨日も(今日も!)お昼にカツ丼を食べ、あるいは毎朝コンビニで中華まんやサンドイッチなどを買っている自分は、どこの誰と「家族」なんだろう? そして、**の息子らとは、やはりもはや「家族」ではないのかなぁ…。(涙)

 私たちは他者とつながる中で境界線を越えたいろんな交わりを持ちます。それによって変化し、成長することもできます。それは「わたし」という存在が、生まれつきのプログラムどおりに動くようなものではなく、いろんな外部の要素を内側に取り込んで変わることのできるやわらかなものだからです。(「やわらかな」に傍点有り。)
 「わたし」が溶ける経験を変化への受容力と捉えると、ポジティブに受けとめられると思います 。さまざまな人と出会い、いろんなものをやりとりした結果として、今の「わたし」がいる。
 その出会いの蓄積は、その人だけに固有なものです。誰一人として、あなたと同じ人と同じように出会っている人はいません。「わたし」の固有性は、そうした他者との出会いの固有性の上に成り立っている。
 でもだからこそ、今の「わたし」が不満な人は、それを悲観する必要もない。みんな気づかないうちにかつての「わたし」を捨て、こっそり他者から新たな「わたし」を獲得しているのですから。

松村圭一郎「器としての『わたしたち』」

ぜんぜん納得できない…。ぜんぜん励まされないし、指針が見えないよぉ。(泣)
そもそも、上の引用部分の冒頭、「『家族』などの身近な存在についても」って箇所から付いていけない。誰にとっても「家族」が身近だなんて思うなよ!(怒)

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今朝は息子と「妻」が出てくる、いい夢を見ました。「妻」ともいい関係だったし、息子とのスキンシップの感覚も、目覚めてもまだ残ってました。

給料日から三日遅れて、今日、「妻」の口座に養育費(?)、振り込みました。(メールはせず。)