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おばーちゃんが死んだ


「おばーちゃん、おばーちゃん、トーキョーばーちゃん、トーキョーばーちゃん」自分の心の声と、小さい頃の自分の声が重なってこだまする。

おばーちゃんが死んだ。大往生だった。

社会性を身につけてしまった大人たちは、消えゆく命を前に、何もできず、静かに泣いていた。おじーちゃんだけは、「脈がもうぜんぜんないよ。」「まったく動かなくなっちゃったよぅ。」「あぁ、もうダメだ…」と私が口にできないことを出してくれた。私は「まだ心臓は動いてるよ」と機械を指差しながらおじーちゃんの背中をさすることしかできなかった。先生の死亡確認が終わったあと、おじーちゃんはおばーちゃんの手を強く握り、獣のように吠えた。私はおじーちゃんを初めて抱きしめた。おばーちゃんは天井から見下ろしながら「ほんとに情けない人だわねぇ。」なんて呆れながら微笑んでた。そんなところも大好きだったんだよね。

1ヶ月前、持病の喘息が悪化して、入院となった。昨日までしっかり意識もあり、看護師さんに「自分で(水を)飲めるからいいわ。」と言えるほどには元気もあったらしい。以前私は病棟勤務をしていたので、1ヶ月間の入院がどれだけ精神も体力も奪っていくのか想像できたが、おばーちゃんは持ち前の明るさと賢さを発揮し、87歳にしてLINEでトークできたし、主治医の先生が「食べたいもの持ってきてもらっていいですよ。」と言うと、「愛媛(出身地)の鯛の刺身が食べたい」と言った(笑)「刺身はちょっとね…鯛飯とか、鯛茶漬けとかなら、」と先生が言うと、「ふん、分かってないわねぇ」と相変わらず我儘さも健在であった。肺が悪いので、喋ることはもちろん、呼吸をするのも苦しい状態だったのに、昨日も鯛の話を主治医にしていたらしく、ずっと退院を夢見ていた。

今日は日曜日で、家族4人でお見舞いに行く予定をしていた。出かける寸前に、おじちゃんからLINEがあった。「ばーちゃんが危ない。14時じゃ間に合わない。早く来て。」家族全員40年以上前のおばーちゃんの手編みのセーターを着ていった。おばーちゃんは刺繍、手編み、ミシン、手縫い、人形、ハワイアンキルト、なんでもござれで、作品数は数えきれない。大小合わせて300くらいはあるだろう。

東京行きの新幹線に飛び乗り、10時に病院に駆け込んだときには、意識はなかった。ただ、一生懸命、呼吸をしていた。目は半分開いていたから、見つめ合えた。大きな耳で、しっかり聞いていた。意識がなくても、きっとわかっていた。「おばーちゃん、来たよ、キワコやお。」新幹線の中から、ずっと呼び続けていた。「おばーちゃん、おばーちゃん、トーキョーばーちゃん、トーキョーばーちゃん、もう少しだけ頑張って、待っててね」

家族の前では、「もう頑張らなくていいよ。」とは言えなくて、おばーちゃんと心の中で会話した。まだ、希望は捨てない、退院できる、おじいちゃんを残して逝くわけない、という家族の望みも理解できた。“治りますように、元気になりますように“私はそんな祈りができなかった。“祈り”とは何か分からなくなった。「もういいよ、みんなそろったよ。みんな大丈夫だからね、心配しないで、もう頑張らなくていいよ。」と心の中で言った。ずっと笑顔を保った。涙がたくさん出てきたけど、ずっとおばーちゃんにほほ笑みかけた。家族に、マスクを外して顔を見せて、と頼んだ。なぜ、最期の瞬間にマスク姿を見せなきゃいけないのか。看護師さんに見られているわけでもないが、それが常識とやらで、あぁ、肺の悪いおばーちゃんに菌を移してはいけない、だってきっと良くなるから、と思っていたのかもしれない。


「少し落ち着いたので、外に出てください。また何かあれば呼びます」と看護師さんから声がかかった。8人で中華を食べに行った。深刻な顔をしていたのもつかの間、昔話が始まった。「私は本当は2番目の女だったのよ、職場に私より綺麗な人がいてその人が本命だったの、って小さい頃の俺が理解できないと思って言われたのショックだったな〜」「え?そんな記憶ないよ(おじーちゃん)」アハハハハ!「ハワイ行ったとき、私たち疲れ果ててるのに、ジジババでずっとテニスやってたよね、お互い負けず嫌いで。昭和天皇と同じ、テニスで出会ったのよね。」「あたし(兄嫁)が大分まで挨拶に行った時、疲れ果てちゃってごはんの時間まで寝ちゃって、あたしのお母さんに“素晴らしく大らかなお嬢さんですね“って電話があって(笑)」「それ、最上級の皮肉だよ!けっこう嫌味言われたよねー」「ママ(キワコのママ)しっかり受け継いどるやん!」「俺が絵描きになるって言ったら、“私はずっと分かってたけどね“って、何でも理解してて、何でも応援してくれたな〜。俺は絵、アコはピアノ、ヒデは本当はバイオリンやらせたかったんだよなー」「けっきょく、ギターだけどな。でもギタリストには小指が短すぎたんだよ、母親似で、」「あたしはピアノで芸大行こうとした時期もあったけど、受験の先生に“高校受験ですか?“って言われたのが許せなくてパッとやめちゃったんだ」「入院直前まで、ずっと足速かったよな、スーパーでじーさん置いて、スタスタスターって歩いてっちゃって、お互い怒ってんの、“どこ行ったんだ“って。」「で、カゴの中2人ともおんなじモノ入ってるんだよね」アハハハハ!「足腰強かったよね、去年だってゴルフで優勝したもんね〜87ですげーよな」そんなことを談笑していると、病院から電話があった。

「脈拍が下がっているので来てください」

病院に戻って1時間しないうちに、呼吸が止まり、心臓が止まった。1時間たっぷり、お別れをする時間のギフトをくれた。もう涙は出なかった。「ありがとう、ありがとう、ありがとう。」やっぱりお別れの言葉は死ぬまで声には出せなかった。だから、「おばーちゃん、みんないるよ。みんな、ここにいるよ」と話しかけた。 とても安らかな最期だった。呼吸が止まってからしばらく、心臓は動いていたから、旅立ちの瞬間はわからなかった。ただ、家族8人に見守られながら、空へ還っていった。おばーちゃんを優しく抱きしめた。やっと「ありがとう」と言えた。あたたかかった。

「みんなが集まる今日を選ぶなんて、やっぱばーちゃんすごいな」「ものすごく頭が良かったよね、なんでもきっちり決めたい人で。14時に孫が来るって昨日はずっと楽しみにしてて、14時44分に逝っちゃうんだもんなー。段取りしてたんだろうな」「えーと、これから何をしたらいいんだ?要領悪いなってばーちゃん呆れてるよ」「じーちゃんの方が早く死ぬと思ったよな」「お父さん残して逝けないって言ってたもんね」「お父さん、頑張らなかんよ」おじーちゃんはずっと泣いてた。「俺は長く生きすぎた」「みんなありがとうね、頑張るよ、頑張るよ」私は体重をかけないように、おじーちゃんにもたれかかった。おじーちゃんを想うと、今でも涙が出る。おじーちゃんがいちばん悲しいよね、65年もずっと、いつも一緒だったんだから。おじーちゃんにたくさん会いに行かなきゃ。おばーちゃん、ありがとう。おじーちゃんを見守っていてね。

おばーちゃんに綺麗にお化粧をしてあげた。おばーちゃん、髪の毛は真っ黒で、おでこはツルツル、唇は綺麗な桜色。緑内障の薬で、まつ毛はフサフサ。とても87歳には見えない。美しかった。本当に寝てるみたいだね。写真を撮ればよかった。おばーちゃんと2ショットで。おばーちゃんずっと口で呼吸をしていたから、口が開けっぱなしで。タオルを首にはさんで口を閉じても、ぽかーんと開いてしまうので「まだ言いたいこといっぱいあったんだろうね」と笑った。口紅を塗るためにタオルを首に挟み直したら、にこーっと口角が上がったままになった。お茶目な人である。みんながおばーちゃんの顔を見ている中、私は残されたおじーちゃんの顔をずっと見ていた。もう会えなくなってしまうおばーちゃんのことより、これから生きていかなければならないおじーちゃんのことを考えて、涙が止まらなかった。

今日が旅立ちの日なんて、昨日まで誰も思っていなくて、孫の顔を見たらまた元気になるね、なんて話していたらしい。これ以上、迷惑かけてもね、と昨晩から天使と段取りしていたのかもしれない。「14時くらいに来てくれるようだから、15時くらいには出発しましょうか」天使だってそう簡単に願いを叶えてくれるはずもないのに、さすがはおばーちゃんだ。世界中のすべての人がうらやむ旅立ち方だね。寝たきりにもならず、ぼけることもなく、家族全員に看取られて、あたたかいベッドの上で、静かに息を引き取るなんて。

そうそう、土曜日、虫の知らせだったのか、本棚から急に本が落ちてきたり、お風呂の蓋がすごい音を立てて倒れたり、吹き飛ばされそうなほどの強風がずっと吹いていたり。珍しく心が乱れて、スペイン語のレッスンで駐車場まで来たのに震えが止まらなくて休んだ。ジムに行ったのに10分もせずに帰宅した。どうしちゃったんだろう?私、なんて思いながら、おばーちゃんが強く私のことを考えてくれていたなんて、思いもしなかった。ごめんね、おばーちゃん。気づいて土曜日に行けば、話せたね。

主治医の先生が来た。本当に残念そうな表情で、「退院するって頑張ってたんですけどね。本当に申し訳ない…」とこうべを垂れた。おじーちゃんは「ものは考えようですね、先生、寝たきりにならんくて良かったですよね、良かったですよね」と泣きながら言った。「お母さん、先生のこと大好きだったんですよ。」「いやいや、私も大好きでしたよ。」素晴らしい先生に担当してもらって、とてもうれしかった。

おばあちゃんは、入院するまで、歩いて買い物もしたし、ごはんを毎食作って、家事全般をこなした。テレビで野球やゴルフを鑑賞し、死ぬまでベッドカバーや掛け軸など作品を作り続けた。ご近所付き合いも濃厚で、旅行に行けばよくいろんな人に話しかけてた。年寄りになればそうなるのかなぁ?と漠然と思ってたけど、おばーちゃんはずっとこうやって生きてきたんだ。孫には甘々だったけど、話を聞くと教育熱心で厳しい人でもあったんだな。知らなかった。私がバックパッカーになるときは、「すごい!かっこいい!若いっていいわね〜」ネアリカを送ったときは、「まぁー天才!綺麗。額縁買わないと。」手作り絵本を贈ったときも、「嬉しい!素晴らしい!」って、いつも褒めてくれて、喜んでくれた。だから、親には言えないことも、おばあちゃんになら言えた。

みんなの後悔合戦が始まった。ため息が出たけど、口に出さずとも私の中にも後悔はある。ただ声に出してしまうと、許しを請いているみたいで、嫌だった。後悔していることは胸の中にしまい、同じ過ちを繰り返さないようにしたい。でも小さな後悔なんてもみ消されてしまうくらい、全員親孝行だった。お兄さん夫婦は、毎年、海外旅行に連れていってあげていたし、私の母は2人の孫をこの世に降ろした。母の弟は一人息子を育て、離婚してからは一緒に住んで車の送迎や身の回りの世話をした。みんな、親孝行だったね。兄弟仲良しでさ。なんて幸せな理想の家族だろうと思ったよ。こんな家族を、家族仲の良くないパパは羨ましく思っただろうな。私も…羨ましく思ったよ。こんな素敵な家族が、こんな身近にいたなんて、なんか他人事みたいに驚いてた。良い意味で“普通“の妹には、普通の幸せを謳歌して、パパとママを安心させてあげてほしい。なんて、無責任なことは言わないけど。私は、私が幸せでいることが、親孝行だと信じて、私は私のやりたいことをやるよ。

追記。夢を見た。おばーちゃん、夢に出てくるかな、と思いながら眠りについたけど、おばーちゃんは出てこなかった。夢の中で、私の小学校時代の友人に3人目の子が身籠っていた。「もうすぐだね」と話すと、私の目の前で破水して、友達は立ちすくんだまま産み落としてしまった。私はそのヌルヌルした赤ちゃんを掬いあげた。ドクンドクンと全身が心臓のように動いていた。生まれたての命。助産師にでもならない限り、こんな体験はできない。今でも腕に感覚が残っている、気がする。おばーちゃんは、この子に《命の椅子》を譲ったんだね。「楽しかったわ〜。次はあなたのばんよ。あなたも思いっきり人生をENJOYなさい!」

ありがとう、おばーちゃん。またね。

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