「人々は生きるべきだ」という前提のみでしか自殺が語られないせいで当事者に声が届かないのではないか。

自殺についてのあらゆる意見が近年聞かれるようになった。特に若年層の自殺についてである。「死ぬくらいなら学校に行かなければ良い」という意見は、いじめや、学校に適応できなかった事で雁字搦めになる子供の逃げ場を重視した考えであり、それ故、(中高年の自殺は減少傾向なのに)一向に減らない子供の自殺を防ぐ思想だという事で、盛んに叫ばれている。

その一方でこのような意見をある。彼ら曰く「逃げて良いというのならば、逃げた後の事を考えなければならない。逃げた後の事や、逃げる事それ自体のリスクを教えない『逃げたほうが良い』論は害悪である」と言うことだ。

それに対しての反論もあり、「子供本人にとって危機が迫っているのである場合、逃げた事のリスクを考慮する間もなく逃がすべきだ」という物が多いようだ。

このような議論を見ていた僕は、この相反する二つの意見について、両方とも納得できなかったのである。理由は単純であり「両者共に目的が『生きることを前提にしているから』である。自殺を人生の選択肢の一つとして考慮している自分は、こういう認識には乗れなかった。

僕としては特に「逃げた際のリスクを考えろ」論者の方に懐疑的であった。彼らは「単に逃げろというだけでは無責任だ」というが、「自殺する事によって生じるメリット」を話さない彼らは「逃げたほうが良い論者」と同様に無責任と感じたからだ。

自殺する事によって生じるデメリットは盛んに叫ばれている。しかし、自殺した事によって生じるメリット、即ち「楽になる」とか「危害を与えてくる人から永久に逃げられる」とか「金銭問題から逃げられる」とか「自分の救い難き欠点」を気にしなくて済む等といった事は言われる事すら無い。

しかし、自殺志願者自身は、そのメリットを享受したいからこそ自殺を望むのである。これは当たり前の話であるが、自殺防止運動という建前の上ではそのメリットすら存在しない物として語らなければならなくなる。そしてそこに嘘くささが生まれる。

自殺する事により生じるメリットを語らないということは、それに起因する自殺願望を否定できないという事だ。「逃げた際のリスクを考えろ」論者がよく語る事として「学校に行かない選択を取った場合、学歴や勉強で遅れを取る」という物があるのだが、こう言った説得では「勉強が大の苦手で、自分でも何とかしたいのになんともできなくて死にたい」といった人を救う事はできない。「学校に行かない事でより一層苦しくなるのなら、今死んだ方がマシだ」となるだけだろう。

先の例の話であれば、「それほど苦しいのなら学校に行かなくても良いのだ」という人々にも嘘くささを感じるのでは無いか。「勉強ができないことと、それによって生じる自分の身の危うさ」を理解している人々にとっては、どちらの意見も響くこと無く、「死ぬのが最適解だ」となるのである。

そもそも、自殺をするのは自殺者本人である。「何を当たり前の事を」と思われるかもしれないが、これこそが大事な事なのだ。我々だって、自分の人生は自分しか歩めないのである。本人が苦しんでいることを他人が肩代わりすることはできないし、本人の苦しみが他者から見てどうでも良い事であったとしても、それは本人には全く関係の無いことなのだ。

本来本人が決める自殺の是非を他者が止めようとする事、その際に、本人が前提としているであろう自殺のメリットを棚上げにして説得を図ること。これ自体が自殺防止運動の歪みであると思えてならないのである。そして、その歪みが故に、自殺を止めようとする人々の声は自殺志願者には届かないのだろう。


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