なぜ私は今回の選挙に行かなかったのか

つい先日、衆議院選挙があった。最近は選挙のたびに「投票率をあげよう」とするキャンペーンが行われる。私はそう言う風潮が嫌で嫌で仕方がない。投票率をあげようとする運動自体、「若者」「老人」の対立軸をあげつらう世代間論争になりがちだし、その過程に於いて、「社会保障」が減らされると失望して選挙に行かなくなった老人は語られない。

このように「選挙は国民みんなの為のもの」と言いながら、他方で自身の属性への利益誘導に徹しがちな「選挙に行こうキャンペーン」を私は冷笑し、或いは嫌悪しつつ「選挙に行かない」人々をツイッターやnoteで探したりしていた。純粋に意図を知りたいのだが、なかなか「選挙に行かない」と言明したアカウントを見かけない。

「これは選挙に行かない人々がサイレントマジョリティ化しているのでは」と思いつつ、ここまで選挙に行かなかった当事者の意見が出ないのであれば私が書いてやろうかと思いつつ、今回の記事を書いているというわけだ。

かくいう私も、なんだかんだで行ったり行かなかったりしていたが、今回の選挙には行かなかった。前置きが長くなったが、理由を書いていこうと思う。

「誰を選んでも同等に最悪」であるため

よく、選挙期間になると「一番マシな候補者を選ぶのが選挙だ」と言われる。確かに投票の意思決定として、そのような手法もあるのだろう。

ところで、私の政治思想を記しておく。長いので、読む気がないなら次の段落まで読み飛ばしてほしい。改行も加えず一息に書く。

本人の意思が明確な場合の安楽死に賛成。そうでなくても、警察が過剰に自殺に介入するのは不当であると考えているし、公の場での自殺を容認できないなら、国家が安楽死の場を整えるのが筋であるだろう。表現規制に反対である、これは性表現や政治的発言もそうであるが、個人的には自殺に関する表現が本丸である。自殺の表現だけ「ウェルテル効果」なることで、規制、自主規制などを求める人もいるが不当も甚だしい。自殺は本人の自由であり、その自由を行使した所で、第三者が責める理屈もないはずだ。同様の理屈で「自殺防止のガイドライン」を政治の場に持ち出すことも反対である。これこそ「報道の自由」に対する挑戦である。小さな政府を志向している。公務員や国家の力では、とても社会の細やかな要求に答えられず、赤字事業を生み出すことになる。元が税収である以上、減税して民間に任せるべきではないか。コロナ対策は失政であった。しかし、「緊急事態宣言は出すべきではない」という意味において。ウイルスに対するリスク評価など、国民に任せておくべきだったのだ。

などなど。政治思想なんていくらでもあるが、これくらいにしておく。さて、このような「自殺願望持ちの自由主義者」が票を投じれる政党はあるのだろうか?

まず、自民党。コロナ対策で評価できないのは先に述べた通り。コロナへの警戒や、ワクチンパスポートなども止めるべきだと考えている私にとってはない。更に岸田政権は増税も行うのだという。それが富裕層だろうが貧困層だろうが同じことだ。

野党共闘はどうだろうか。ない。理由として個人的に大きいのは、先のALSの方が亡くなられた嘱託殺人事件に対する彼らの反応もある。詳しくない方は検索していただくとして、この件で亡くなられた患者の方は「安楽死合法化」をネット上で訴えていた。野党共闘の議員や、その支持者は、その切実な思いに「答えもせず」優生思想に対する警戒に終始していた。

勿論、優生思想の警戒は勿論存在して然るべきだろうし、新事実も浮かび上がってきている事件で、あまりこのような論を立てるべきではないのかもしれない。しかし彼ら野党支持者は安楽死を切実に求めていた人々を無視し続けた。それに、今回の件で亡くなられた方が何年も死を望んでいたことは紛れもない事実であり、ネットにいる自殺志望者も、私も、何年も死を望んでいたりする。自殺を試みたり、示唆すると警察が来る、自殺を止めると警察から感謝状が送られる。そのような社会は満足に死ねる社会ではない。「自殺は止めるべき」と盲目に考えている野党には票を投じることはできない。

「マシ」の候補になるのは維新と国民両党である(N党も「マシ」候補ではあるのだが、「あまり振り回されたくない」が正直な所だ)

維新はない。橋下元大阪市長と私立学生の討論を見たときから支持していない。「陳情」に来た「学生」に「立候補しろ」と言い放つこと自体、あの場がパフォーマンスでしかない事の証明である。仮にも市民である彼らをパフォーマンスの道具にし、人々からの嘲笑を浴びせさせる姿はただただ下品に映った。

政策だって、確かに新自由主義とも言われる同党だが、完全に小さな政府を志向しているわけでもない。「賢い政府」を志向しているとも見たが、政府なんて賢くないのである。結局の所彼らは行政を引っ掻き回しこねくり回したいだけだ。確かに功績も産むだろうが、失敗も産むだろう。

国民民主党が正直一番マシには見えた。「二次創作合法化」を主張しているのも魅力的に見えた。「ケーキ屋で版権モノキャラクターを書くのが違法」なのは果たして文化の発展に寄与するのか疑問に思っている僕にとってはそうだ。

しかし引っかかる点はある。孤独省の設置というものは、税金の無駄にしか過ぎない。せめて、先行事例のイギリスに於いてどのような成果が出ているのかの研究をするのが筋だろう。私には、無駄な仕事を増やしているようにしか見えない。最近の若者には珍しく規律財政派の僕からしてみれば、景気刺激策も良いがどのように収入を増やしていくか、支出を減らすかの出口戦略が不透明にも感じた。

結局僕は「結局自分の立ち位置だと国民か維新だろうな」と思いつつ、しかし決め手もなく等しく最悪にも見える。そんなこんなで投票時間が過ぎていったと言うわけだ。

ちなみにここには書いていないが積極的に支持している政党がある。「支持政党なし」だ。代表の佐野氏はそもそも安楽死合法化を掲げて選挙を戦っていた人であるし、支持政党なしの理念や党名は皮肉的で痛快である。何しろ彼らに入れたら「選挙に行け」とうるさい人々が怒り出す。こんなに良い政党はないが、あいにく今回は北海道からのみの立候補であった。

ここまでざっと書いたが、一つ言いたいことがある。私のような人間について、選挙とは「海に突き落とされるか、崖から突き落とされるか」を選ぶようなものに他ならないと言うものである。よく投票行為を「レストランのメニュー選び」に例える人がいるが、そんな悠長な例えができるのは彼らが支持政党を持っているか、もしくは「実際の所マシどころか「良い」候補を選んでいるから」に他ならない。それに、もし選挙に行かないことで政治に文句を言う権利が失われたとしても、私のような狂人の言うことなど誰も聞かないのだから、さして意味などないのだ。

私にとっては誰を選んでも最悪な選挙だった。甲乙つけがたかった。そう言うわけだ。

選挙で私は利益を得られない

選挙のたびに、「選挙に行け」と言う話が繰り返される。繰り返し、繰り返され、繰り返される。選挙に行かない人間は人間にあらず、そう言う勢いで繰り返される。

しかし、彼らがやっていることは所詮自身らに利益が来るように組織だって動いているに過ぎない。古き地方議員がやっていたようなことだ。「政治なのだから当たり前」との声が聞こえてくるようだが、それなら僕は僕自身の利益を追い求めても良いではないか。

というわけで僕の利益になる行為を考える。投票に行く暇があるなら、家で寝ているか、ゲームをやる。以上。

だってそうではないか。政治に熱心な人々は、緊急事態宣言やワクチンパスポートが悪であるなんて考えなければ、安楽死を本人の意思が明白な限り認めるべきだとも考えないし、ましてや「自殺予防のガイドライン」をメディア批判に使うような人々だ。

彼らが支持する政党や候補者に入れても、何も良いことはない。私は別に彼らを信任しているわけではない。私が1票入れた所で、政治家は信任を受けたと勘違いしせっせと自殺防止運動に予算をつけたり、「ロックダウンは現行憲法で可能」か「憲法改正でロックダウンを認める」かの、どちらに転んでも最悪な議論に精を出すのである。

私が一票を入れようが入れまいが政治家は最悪のことをするのである。そんなクソくだらなく、誰でも等しく最悪な選挙に行くのであれば「勝手にやってろ」と家で過ごす方が有意義だし、なんならハロウィンで街に繰り出し酒を飲み街を練り歩いた方がよほど有意義なのだ。

私の文章を見て顔を顰めた人に言いたい。私も有権者だ。こんな人間でも一票を持っている。こんな私を選挙に行かせたいのならば、とっとと供託金の廃止を訴えるべきだ。また、供託金によりおかしな候補者が出るのを防いでいると思っているなら、私のような人間を許容せざるを得ないはずだ。

なお、「自民や維新がひどいから」「立憲共産党がひどいから」『だから選挙に行け!』

のような意見を私は聞くことはできない。なぜなら、私にとってのこの世の巨悪は

「自殺と言う選択肢を隠蔽し、忌み嫌い続けた世間」

そのものであるからだ。その構造を支えている一つに「個人の愚行権」を認めない政府が存在するし、既存の政党全て、社会や国民自身が、それを維持してきたのだ。私にとっての悪は私以外の全てだし、私自身だ。

ここから真面目な話

まあ、ここまで妙な言説を書いてきたが、真面目な話「選挙に行け」と言う人々の属性が、政治に興味がある人間、或いは支持政党のある人間であるせいで世の中に響かない。と言う構図はあるように思うのだ。

例えば「政治で自分の生活が変わると思わない」人々には2種類存在すると考える。「現状困っておらず、自分でなんとかできる」タイプと「自身の悩みが特殊過ぎて政治では解決できない」タイプだ。

前者の主婦の人と話した記憶がある。曰く「結局は自分達でなんとかしないといけない」とのこと。画面の前のあなたは「それは違う!」と思っただろうか?しかし、その主婦の方は政治が解決できる差し迫った問題は何もなかったのである。あったのは、自身の息子や娘が日々抱え込む問題の数々であり、彼女は辛くとも楽しそうに育児を今日も行っているのだ。

後者は紛れもなく私。あなたはこの文章と私に共感できましたか?

恐らく「選挙に行け」と考えるような人々は、「政治」が解決できる幅を選挙に行かない人々より大きく見積もっている。投票率が今回微増したことをどう捉えるかにもよるだろうが、投票率が今後伸び悩むようであるならば、「政治は実はあまり問題を解決できないのでは」と言う疑問を、党派や思想を超えて持ってみるのも良いのかもしれない。支持政党や、阻止したい思想がある以上政治に期待をかけるのも当然かもしれない。しかし、選挙に行かない人々は、貴方の持つ前提を持たない。彼らが「目覚めてない」のが理由で、貴方の持つ前提を教えたら同じ立場になると思うだろうか?私は、みんながみんな目覚めるとは到底思えないのだ。

「他人に文句を言うくらいなら自分を磨く」と言う自己啓発文の延長線上に「政治に文句を言わない」としている人々も存在する。「自分ではどうにもならないこともあるだろう」と思った?確かにそうだ。しかし、それすらも受容せざるを得ない絶望に政治は答えられるだろうか。貴方の支持政党なら答えられる?その人はそう思わないかもしれないし、その政党の思想こそがその人の生き辛さかもしれない。

自身の生活が過酷過ぎて投票に行けなかった人々もクローズアップされた。彼らの生活をよくしてくれる政党は存在するだろうか?彼らの抱えたシチュエーションを、候補者は想定しているだろうか?貴方の支持政党は、彼らの味方になるどころか追い立てるような主張をしていないだろうか?

そう。一人ひとり抱えていることが違う。立場も違う。一言では言い表せない。

「若者のための政治」とはなにか?大学無償化か?高校無償化か?中卒で働きに出た人の税の負担は相対的に増すのに「若者のための政治」になるのか?中卒の人の負担増は少数の犠牲として仕方のない話なのか?中卒は若者でないとでも?

「子育て支援」で男女問わず増え続けている単身者の税負担は増えることになる。それで金銭的余裕がなくなって更に非婚化が進むのでは?出生に補助金を出すことにする?それこそ国が「子供を産むのは素晴らしい」と定義していることにならない?

あちらが立てばこちらが立たない。それが政治。その繰り返しに於いて、誰にも代弁されなかった声は消えていく。そのような声だって、投票に行かない、行かなくなった人の奥底に眠っているかもしれない。

貴方がもし支持政党があり、思想を持っていて、低投票率に悩んでいるなら、貴方の支持政党が掲げた政策で別の誰かが苦しむことにならないか、なったとしてどうすればよいのか、そう言う所まで考えても良いのかもしれない。

終わりに

今回、「選挙に行かなかった理由を書いておかねば」と言う確固たる思いでこの文章を書き始めた。「選挙に行け」とうるさい人々への呪詛の声に溢れる文ができるかと思ったが、書き上がるとそうでもなかった。私も優しいのだろう(ボケ)

まあ、最後に一つだけ。

私は「投票には必ず行くべきだ」「行かないやつはどうかしている」と主張する人間と付き合ってはいけないと思っている。

選挙に行くことを認めていない彼らだが、選挙には国民のおよそ半分が行っていないことになる。理由に耳を傾けることもなく、頭ごなしに「選挙に行け」としか言わない彼らは国民のおよそ半分を尊重できないことになる。

そんな彼らに、マイノリティ、弱者、日本国民、そして貴方自身を尊重できると思うだろうか?国民の半分の人間が行っている行為すら頭ごなしに否定する彼らが?貴方の趣味や行動を尊重できると、本当に思いますか?

悪いことは言わない。別れるべきだ。どうせ細かな考えの違いを相手はあげつらおうとするだろう。そうなっては遅い。別れるべきだ。すぐに。

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