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読書録:東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』

 東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学署員, 2019)を読んだ。

あらすじ

 筆者はカウンセリングがメインの業務、家族を養えるだけの給料、地域は問わない、という3つの条件で沖縄の精神科クリニックに就職した。
 しかし1日のうちカウンセリングの割合は少なく、デイケアのスタッフとしていることがほとんどだった。その業務はお茶を作る、送迎するなど専門性の高いものではない。することがなくて戸惑う筆者だったが、デイケアとは何かをする場所ではなく、自分が一緒にいることで利用者に居場所を提供する場所であることに気づく。
 しかし、段々と同僚たちが辞めていく。筆者も最後には転職する。そして新しいスタッフが入ってくる。離職者が多くてもスタッフの数は確保される。それはひとえに給料の高さからだったことに気づく。

わけられないものをわけること

 ケアとセラピーは、誰かを援助するときの成分である。ケアは相手を傷つけない。セラピーは、クライアントが傷つきに向き合い、もう大丈夫と思えることを目指す。援助とは依存か自立かの二項対立ではなく、その配分の問題であると筆者はいう。

 経済的な観点は、社会復帰を志向するセラピーに味方する。保護、維持を目的とするケアは経費として位置付けられやすい。経費は削減すべきものとして捉えられがちだ。

 デイケアは利用者が「いる」ことを支える場所である。「ただ、いる、だけ」は効率性や生産性を求める声とひどく相性が悪い。そうしてケアされる人の「いる」は脅かされやすく、ケアする人の「いる」も軽視されやすくなる。

ケアと育児

 ケアすることは育児とも通じる。確かに、依存させることと自立を促すことの匙加減で日々が過ぎていく。成長とともにその比重は変わってきたようだ。自分にも、ケアする相手にも、意思がある。そこをよく確認しながら、できること・できないことを擦り合わせて暮らす。

 子供に無理強いしてもうまくいかないし、いつのまにか勝手に育っている。コントロールの効くことはあまりない。積極的に働きかけるよりは、放っておいた時間が長いほど自分のしてきた(しなかった)成果がわかる、という我慢比べのような感じでもある。

 誰かの母親であること、プライスレス。別にお金を払ってほしいわけではないが、賽の河原で石を積むような日々を送り、成果はいつ出るかわからない。クビになることはないだろうけど、だからこそブラックにもなりうる。
 それでもここにいていいっていうのは、子供だけじゃなくてお母さんにも言ってほしい言葉だと思う。

 そのまえに、誰かに評価されなければ意味がないって思ってしまうのは何故なんだろう。ただ一緒にいるだけで居場所を作っているというのに。私は誰の評価を必要としているのか。
 いつでも、居場所がなくなってしまうかもしれないという焦燥感がなくならない。私の安息の地はどこにあるんだろう。

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