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アドラー心理学入門に参加して Meet Adlerians at Nakano 

 中野エクステンションセンターで開講された向後千春先生の「アドラー心理学入門」に参加した。
 ここで私は「参加した」と書いている。「受講した」ではない。多分重要なポイント。一晩経ってこんなものが生まれた。


今回のおみやげ

1:「明日飲み会で語れる心理学うんちく(アドラー贔屓)」生成

 心理学は哲学から派生した。
 「心理学」はかの有名なフロイトがしていた治療、トラウマを解決するための技術、とイコールではない。あの流れは心理学の中で「精神分析学」と呼ばれ、今では下火。しかしフロイトは20世紀の文化系術方面に大な影響を与えた。
 心理学にはその他に、さまざまな条件下に置かれた動物の反応を観察する実験(ex.レバーを押すと餌がもらえるラット)を通して「カワイイは作れる!」ではなく「行動は形成できる!」と主張する「行動主義」と、精神分析学から独立したアドラーの流れを汲む「人間が生きる意味とは何か」を問う「人間性心理学」がある。
 アドラー心理学は「使用の心理学」と呼ばれ、前述のフロイトのように「無意識やコントロールできない感情に動かされる自分」ではなく、「どんな時にどんな感情をどのように人は使うのか」ということに焦点を当てる、あくまでも人を主体的に生きる人間として捉える考え方である。
 この他にもたくさん心理学の流れはあるので探してみよう。

 講座の内容を踏まえ、こんなものが書けた。ということは、心理学とは何か、数分で言える範囲では人に説明できるようになったのかもしれない。歴史は大事だし、ストーリーも大事。
 ここで合わなそうだと引き返す人は引き留めないし、ちょっと楽しそうと思って片足を踏み込んだ人を沼に引き摺り込む準備はできている。ようこそ魅惑の世界へ。

2:私とは何か 再考

 実習として「ライフスタイル分析」を行なった。
これは人間の「何かあったらこんな選択肢を取りそうな傾向」のようなものをはかるテストで、課題達成重視/人間関係重視・積極的/消極的の軸で見る。
 自分は課題達成重視・積極的のタイプであるが、負荷がかかると消極的な方に移動する傾向があることは、何年かにわたって定期的にテストすることで見えてきた。
 いずれにせよ、課題達成>人間関係なタイプなわけで、つまりこれまでの人生で言われがちであった「人のことはどうでもいい」、「マイペース」と齟齬ない。(前者のように言われるととても悲しい)
 とはいえ言葉は所詮記号だし、物は言いようなので(というフレームで見直して)、つまり私は過剰に人に干渉しないし、自分のペースを崩さないという良さがあるから、そういう視点で売り出していきたいと思う。これがセルフブランディングということか?

 再三書いているが、私は「『推し』がある人」推し、つまり人がどのような世界観を持ち、何に興味を持ち、それらをどう解釈し、そしてどう行動するのかというところに興味がある。
 これは「人間への興味」には他ならないとは思うが、「人間”関係”への興味」ではないということなのだろうか。人はあくまで観察対象でしかない?とんでもない、その人の見ている世界、考えから何からいとおしいのだが…
 そもそも人間関係が良好でなければその人の感じたこと、考えていることなど話してもらえない。だからといって、聞き出すために仲良くするなんてとんでもない。

 かつて仕事上でそんなシチュエーションに置かれたことがある。仲良くなって都合をつけろ、のような話である。つまり、私との人間関係を担保に相手の気持ちをそちらに動かせと指示されたような気がした。相手への申し訳ない気持ちとやり遂げねばならないタスクとの板挟みになって、死んだ方がマシだと思った。違う方法で仕事をやり遂げてもよかったならそうしたかったし、自分でできることは他の何だってしただろう。
 今、「どんなに頑張っても人の心は思う通りに動かせない」し「人の心を操作しようとすることはダメだと思う」という自分の価値観を言語化した。 
 外在化して観察するともう少し解像度が上がった。「自分の目的を達成するために、人の心を操作してはならない」こっちだ。
 つまり、共通の目的を探ればよかったのだなあと10何年たって気持ちに決着がついた。相手も楽しいと思ってもらえることとして共有できたら、幸せな仕事の記憶となったのかもしれない。
 こうしてあの頃の生き霊だった私が1人成仏した。悩んでいた頃は色々若かったし、図太く生き残ったからこそここまで辿り着けた。命あっての物種である。

3:さらなるおまけ(にこそ神は宿るかもしれない)

ひとつめ
 感情は瞬発力がある 意味づけの言葉は後付けである
→(仮説)セリフに感情を乗せて出力できるのは役者の特殊技能である
では、役者はどんなことをしているのか?
(私の場合 劇をやるとしたら)
 役をプロファイリングして、自分にイタコして体を貸す
 *イタコは局所的に流行ったのでちょっと嬉しい。

ふたつめ
 ウィーン心理学者三羽烏はただの超人ではなく、三者三様に悩みを抱えた1人の人であったからこそ、それぞれの理論を確立したんだと思う。(多分ソクラテスと同じ)

みっつめ
 (ライフスタイル分析)Dタイプの人でまとまると生きて帰れないかもしれないけど、Aタイプの人が混じってると生き残る確率が上がるし、Cタイプの人がいると少し楽ができて、Bタイプの人がいたら…ちょっと寂しい思いをさせるかもしれない。

よっつめ
 (宿題について)ほっといても勝手に出力する人に指示は必要かわからないし、逆にこのように提出せよとフォーマットを指定するとできなくなるかもしれない。(整形するにもエネルギーがいる)
 しかし、どう振る舞えば良いかよいかわからない人にフォーマットは重要である。
 朝会った人に「おはようございます」というルールがなかったら、かつ会った人に挨拶をしないのが普通という共通認識がない限り、そこで殺し合いが始まるかもしれない。

 脱線した。

 例えば定着を目的として思い返してもらう→書き出す行動を指示するのは有用であろう。
 しかし、同じスタートとゴールを用意し、採点して評価しなければならないという枠組みであったならお互いに苦行になるということなのではないだろうか。
 また、このイメージが定着している人に「宿題」かそれと類似したワードで指示を出すのにはやってもらえないリスクがある気がする。

いつつめ
ポジティブ感情 → 注意を広げ、全体的な認知や処理を高める
ネガティブ感情 → 注意を狭め、局所的な認知や処理を高める
 「たのしかった」(しか書いてない)感想は、ともすれば「何も聞いてなかったんじゃない?」という疑念を教師に持たせ得る。
 しかし長文の感想を書くということは必ずしもネガティブ感情でもって自分を駆動させているわけではない。この文がもうそろそろ3000字も間近となってきたのに書いているのは怒りや悲しみで悶々としているからではない。
 あったことを私なりに消化したのちに「書き出す」ということが私のありかただから書いているだけで、人によっては絵を描いたり歌を歌い始めるのかもしれない。現に楽しくて書いているわけで、ネガティブ感情が出てくるのは同じ言葉を近くで使いすぎて嫌だとか、この言い回しもっといいのないの?なんてところである。
 言うなればポジティブ感情でもって書き出し、ネガティブ感情で刈り込んでいる。つまり私は植木屋さん。


これもわかりやすかったし似顔絵が好き。

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