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課題からの自由 あるいは課題への自由

 夏休みになってから、子どもの宿題が気がかりである。特に自由課題。内容は研究でも旅行記でも工作でも料理でも、なんでもいいらしい。

 本屋に行けば自由研究のネタ本は豊富だし、ホームセンターに行けば工作キットは豊作だ。もちろんインターネットで検索すればアイディアがざくざく出てくる。
 自分が子供の頃、こうだったら困らなかったのに。それに引き換え、こんなにヘルプが潤沢にあるのになぜ子供達はぴくりとも動かないのだろうか。

 そうか、また取り越し苦労だ。これは子供の課題であって私の課題ではない。私がどうお膳立てしても、子供がやろうと思わなければ何にもならないのだ。宿題リストを見ながら、まだ終わらないとイライラしているのは私の問題だ。

 自分が小学生の頃は、自由研究のネタがない、やりようがないと思っていた。歳を重ねるごとに、「こうやればよかったのに」を自分の中に堆積してきた。
 そうして今目の前に現役の小学生がいる。
 危ない、代理戦争をさせるところだった。自分の積み残してきた思いを肩代わりさせるところだった。さらにたちが悪い。

 もう30年遅いのだ。自分の自由研究を、同じ土俵でやり直すことはできない。大人は"夏休み"の宿題を出してもらえないし、提出する先もない。

 大人はもう夏休みがない。誰かに課題を出してもらえない。それでも研究したいなら、何か役目を果たしながら、同時に研究するしかない。課題は自分で設定するしかない。認めてもらうには、認めてもらえる場所探すしかない。

 そもそも、ちょっとだけそんな空気に触れていたのだった。残念なことに今年度末で終了ということなのだけれど。

 向後先生の「おとなの研究コース」、1期生として修了したものの、そこで手が止まってしまっている。
 研究を通じて、最初に立てた自分の「仮説」が「思い込み」であることを思い知らされた。そして「きっとこうであろう」という頭のままでデータを眺めても、何も見えてこなかった。出てきたデータからは、「どう考えてもそれって普通のことじゃん?」というようにしか見えなかった。しかし、普通のことのように見えたなら見えたで、そのような結論を出しても良かったのだ。出てきたデータから、何を読み取るか、それをどう書くかが勝負であることを知った。

 もう一回、おとなの課外活動として研究始めてみるか。そうしたら子供の宿題に悩む時間を減らせそうだ。
 

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