「学歴中心の履歴書」から「経験中心の履歴書」へに対する反応を見て思うこと

平原依文さんの
若者の格差を無くすためには「学歴中心の履歴書」から「経験中心の履歴書」へすべき
という意見が、ここ数日twitterで批判されている。
この主張自体は昨年11月1日のニュース番組内でのものだが、そこでの主張の画像を取り上げたツイートが議論を呼び起こした形だ。
そのほとんどは、「経験重視にしたらお金で経験を買える富裕層が有利になり格差が広がる」という趣旨のツイートだった。

この主張自体はまさにその通りだろう。
何人かの人は成田祐輔さんの番組内での指摘(アメリカの一流大学では経験重視にした結果、色んな経験ができるパッケージツアーのようなものにお金持ちが参加するようになったという趣旨の発言)を例に挙げており、この点はサンデルも同様のことを指摘している。
そこまで極端でなくとも、履歴書にかける経歴となると、どうしても家庭環境や居住地域などの要因によってアクセスできるかは大きく異なると考えられる。

ただ、これらの経験重視による弊害に対する指摘を根拠に、そのまま比較対象の学歴重視を是とするような書き込みも散見されており、これについては安易にもう片方を肯定するのは問題があるように思う。

学歴獲得における階層差や階層の固定化については主に教育社会学において何十年と研究されてきた。
近年では例えば松岡亮二「教育格差」などが新書として店頭でも大きく扱われたりしたが、経済的な面に限らず、家庭の文化資本や親の進学欲求など様々な要素が階層による学力・学歴の差を産み出していることが知られている。
そしてこのような教育格差については、データとしては知らなくても多くの人がなんとなく感じていることではないだろうか。
数少ない数量的な意識研究では、学力獲得における機会の差についての認知において階層差はあるものの、多くの人が機会が平等でないという結果が出ている。
ではなぜ今回の議論では、経験重視よりも学歴重視の方を擁護する人が大半を占めていたのか。

今回の平原さんの発言は、おそらく新卒などの若手の就職における選抜基準のことを指していると思われる。
例としてユニリーバの新卒採用の履歴書を挙げていたし、そもそも中途の転職市場では学歴や学生時代の経験云々の前に、仕事で何をしていたかが重視されると考えられるからだ。
そしてこうした選抜の基準の正当性は二つの基準に分けられると思う。
①公平性
②本当に能力の基準として適切か
という2点である。
②については本当に学歴や経験が仕事の能力を表すのかという視点である。これについては学歴批判の文脈でも散々言われている。(高学歴は使えないなど)
ただ今回はそもそものテーマが「若者の格差を無くすには」であり、おそらく①の公平性というほうについて多くの人は問題を感じていると思われる。公平性についてはさらに段階によって二つに分けられる。
①獲得段階②選抜段階
である。
獲得段階とは学歴や経験を獲得する際の機会がどのくらい平等かという視点であり、②の選抜段階は、選抜する際の公平性についての視点だ。

まず①獲得段階については、どちらも階層による格差が生じるのは否定できない。その差の大きさについて数量的に比較することはできないが、1番の違いとして最低限の機会が保障されているか否かという点があるだろう。
学歴に関しては、少なくとも義務教育で9年間、カリキュラムに載っている内容を教えられる。そして高校受験や大学受験は、一応は受験資格を等しく有している。(もちろん、受験料や交通費などが大きな負担となる家庭も存在するが)つまり階層による格差は明確に存在するが、形式的には機会が与えられている。
一方で経験となると、難しいところではある。ここでいう経験の範囲が明確に定められていないため、誰でも何かしらの経験を得るチャンスはあるといえなくもないが、例えば先ほどあげた義務教育における各教科の内容を教えられるというような、誰もが同一に与えられる場というのはない。そしてもしその経験がボランティアや留学などを指すのであれば、そういったチャンスが文字通りゼロの家庭は多く存在するだろう。
そうなると、獲得段階における機会という面では、学歴の方がまだマシ(平等に近い)といえるかもしれない。実際、今回の経験重視批判は、主にこの獲得段階での機会の格差を根拠にしたものだといえる。
また学歴重視の方が獲得段階において平等だと感じられるのは、日本特有の努力主義も関係しているかもしれない。
苅谷剛彦が「大衆教育社会のゆくえ」でも指摘しているように、日本では能力平等観に基づいて「頑張れば誰でも出来る」という努力主義が受容された。経験よりも学歴の方がなんとなく努力が反映されそうということも、今回の学歴批判に影響しているのではないだろうか。


次に、言及は少ないが、選抜段階にも注目してみたい。
選抜段階については、経験による選抜の難しさが2点指摘できる。
①多様な経験を測る統一の基準を設定する難しさ
➁評価の段階で入り込む恣意性
である。
①については、質の違う様々な経験をどのように優劣をつけるのかという基準を設けるのが難しい。「○○へ留学」という字面だけで優劣をつけるのは問題があるとする人が多いだろうし、細かく経験を掘ると複雑性は増すだろう。
①とも関連するが、➁評価の段階での恣意性も問題となるだろう。有名な話だが、あるオーケストラの採用では男性の方が毎回比率が高く、採用担当者は性別ではなく演奏の技術で選んでいると言っていたが、実際に衝立の向こうで演奏してもらう(誰かわからない状態で演奏してもらう)と、合格者に占める男性の比率が下がったという。曖昧な基準のもとだとどうしても性別や人種などのバイアスがかかることは否めない。
もっともここで指摘したようなことは現在の就活に対する指摘の中でも散々言われているだろうし、それほど真新しいことではないかもしれない。

さて、ここまで平原さんの発言を元に「学歴重視の履歴書」「経験重視の履歴書」の是非を獲得段階/選抜段階に分けて考えてきた。
まとめると、獲得段階においては両方に家庭環境など「生まれ」による有利/不利が生じるが、形式的な機会が与えられる学歴の方が「まだまし」なように感じられ、選抜段階においては経験はその基準と恣意性という点で難点があることが指摘できる。
一方で、特に就活においては平等性よりもむしろ今回取り上げなかった「本当に能力を表す指標なのか?」という方が問題にされることが多いように感じる。
そして何より、現状の就活における基準は学歴か経験かという二元論で語れるものではなく、各企業がそれぞれの基準で両方を使い分けているという実感がある。
もちろんここでいう学歴を学校歴(どこの大学か)ではなく本当の意味での学歴(中卒/高卒/大卒/院卒)で捉えるならば、特に高卒/大卒における分断が存在していることは1つ考えるべき点として指摘できるだろう。


とはいえ、今回のような軸は「受験」においてより対立すると考えられる。
すなわちテストの点を重視して合否を決めるのか、経験を重視して合否を決めるのかという対立だ。
そして受験においては、今回挙げたような獲得段階での機会の不平等・選抜段階における基準の曖昧さや恣意性は、就活以上に問題となる。
小・中・高校生の間に多様な経験をする機会があるかどうかは大学生以上に家庭によって左右されるだろうし、そのことを上手く表現出来るかどうかという点でも、生まれや育ちの環境による影響は大きいだろう。

広島県の公立校の入試では2023年春から「自己表現」が導入される。
「自分自身のこと(得意なことやこれまで取り組んできたことなど)や,高等学校に入学した後の目標などについて,自分で選んだ言葉や方法で,自分らしく,伸び伸びと表現する」面接のようなもので、「自己を認識する力」「自分の人生を選択する力」「表現する力」の3つを点数化して評価するという。
こうした力を身に着けてほしいという目的を持って合否の基準にする意図はよくわかるが、同時に、階層の再生産を強化することに繋がらないかよく考えるべきだろう。

もちろん、再三言っているように、学力や学歴に関しても、機会の格差は存在しており、階層の再生産の一部として機能していることは紛れもない事実だし、そこから目を逸らすべきではないと思う。
教育社会学では、家庭の自立・能力主義・機会の平等という三つはどれか二つを満たすと必ず残りの一つが満たされないというトリレンマが指摘されてる。
能力主義的な価値観が広く共有され、また家庭の自立は(人権の侵害などを除いて)当たり前のこととして認識されている中で、完全な機会の平等を満たすことは不可能かもしれない。
だが頑張れば誰でも成功できるというような曖昧な努力主義で隠すのではなく、機会の不平等の存在に目を向け、選抜の仕組みを考えていく必要があると思う。
もしかしたらその結果は、サンデルが言うような「くじ引き」なのかもしれない。

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