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Virtual俳句週刊誌『歌想句感』Vol.2 月曜号「狐、千年狐となる」

 コンコンちゃ〜!
 俳句系千年狐Vtuberきつネつきです(🤘🏻・ω・)🤘🏻
 Virtual俳句週刊誌『歌想句感』 月曜号は、僕にまつわる内容ということで、今回は僕の生い立ちや二人の先生と出会ったお話をば。



1.生まれ落つ 或ひは 落ち生まる

 まずは僕の生い立ちについて。
 自己紹介でもいつも言ってる「千年狐」という言葉。そう、僕は千年近い年月を生きてきました。「近い」という表現なのは、厳密に千年かどうかの確証がないから。みんなだって、例えば十年前の今日、どこで何をしてたかなんて覚えてないでしょ?それと一緒。僕の感覚から言えるのは、千年にはまだ少し足りてないってことだけかな。
 前置きが長くなりそうだからそろそろ本題へ。

 時は平安の世。今でも記憶にあるのは小さな神社の光景。僕はその神社に生えていた、かなり立派な木から落ちた。厳密に言えば、落ちた衝撃で目が覚めたような感覚。それまでは何の意識も記憶もないままに過ごしていたであろう僕に、一瞬にして自我が芽生えたような感覚があった。人間で言うところの「物心がついた瞬間」ってやつかな。ともかく僕の生涯の記憶は、ここから始まってる。
 それから数年だか数十年だか生きて、ようやくここで自分でも気付いた。

 「あれ?何か僕、生き続けてね?」

 ――――おかしい。どうも老いて衰えていく気配がないのです。そしてそれと同時に抱いた違和感。

 何となく、人間の感情が読める。

 もちろん、人間の言葉を理解できるわけではありません。この人間は今こんな気持ちなんだろう、とか、今はこの人間に近寄っても大丈夫だろう、とか、今はこの人間から逃げたほうがいいだろう、とか。大まかに言ってそんなことが、気配というか雰囲気で分かるようになったんです。
 のちに知ったことですが、僕が落ちた木はその神社の御神木で、平安の当時でも樹齢千年と言われる楠の大木でした。樹齢千年の御神木の御利益で、千年の命を授かったのかもしれないと、今では思います。
 僕があんまり大昔の話をしないのは、思い出そうとすると意識が引っ張られそうな気がするから。だからこれからも配信では、あまり深く話すことはないと思ってて下さい。


2.一人目の先生と出会ふ

 御神木の御利益なのか否か、詳細は不明ですが、何かに化けたりする能力も身につけた僕は、人の子どものフリをして、人里に行くことが増えました。

 そうして出会ったのが一人目の先生。あの神社の宮司さんでした。人の子の見た目なのに、言葉は話さない、親がいる様子もない。そんな僕を見て、最初は捨て子だと思ったと言われました。捨て子と思い込んで、このままではいけないと、僕に人間の知識や言葉の読み書きを教えてくれたのです。
 そして、ある日とうとう気付かれます。とはいえ、狐!とバレるまではいきませんでしたが、あまりに動物じみた言動に、ふと言われたのです。

 「狐憑きか……?」

 狐憑き(きつねつき)は、狐に取り憑かれた人間のこと。何を隠そう、僕の活動名でもある「きつネつき」はここから来ています。
 やはり普通ではないということは、すぐに気付かれてしまいましたが、それでも僕を気味悪く思う様子もなく、変わらず接してくれました。この人がいなければ、僕は人間に紛れて生き続け、今の今まで生き長らえることは、叶わなかったでしょう。
 言葉を教える一環として、この人は自分の名前を僕に呼ばせました。思えば当時はまだ、先生という言葉自体、あまり使われていなかったようにも思います。
 こうして僕は、人間の知識と言葉を得ることが出来たのです。


2.二人目の先生と出会ふ

 月日は流れ、大正時代。僕はまだ生き長らえておりました。まあだからこそ、こうして今もダラダラと駄文を書き連ねているわけですが。
 一人目の先生と出会い、人間の知識や言葉を得て、京に都仕えしたり、宮中での記録を書物として残したりと、人間として巧く生き抜いてきた僕でしたが、どうしても教えられた知識が古く、どんどんと進んでいく時代の流れに追いつけなくなってきていました。だからしばらく、人の世から離れて暮らしていたのです。この「しばらく」は、人間からしたらとんでもなく長い年月でしょうが……。

 そうして出会ったのが二人目の先生。先生は文学と文学者の研究をしている方で、僕の古い知識や言葉を、近代のものへとのアップデートしてくれたのです。僕は彼を常に先生と呼び、先生は僕に、人間として生きていくための新たな名前をくれました。この名前は今もなお、僕が人間の世界で使い続けている名前です。先生との出会いがなければ、僕はとうに人の世を捨て、人知れず狐に戻って息絶えていたことでしょう。
 僕は先生の家に転がり込み、再び人間として生きていく決意をします。先生は独り身で、あまり体が丈夫な人でもなかったので、研究や執筆に打ち込むサポートを僕がしていました。

 当時の文学者や文学に携わる人は、俳句を詠んでいる人が多かったです。夏目漱石や芥川龍之介、名だたる文学者たちもみな俳句を詠んでいます。先生もそうでした。が、一つ前の号で書いた通り、当時の僕は俳句に興味を示さなかったため、いや、示せないほど日夜勉強に追われていたため、俳句を始めることはありませんでした。
 先生は僕を住まわせて数年後、当時では不治だった病に罹り、五十年にも届かない生涯を閉じました。
 先生の家には今も、時々お邪魔することがあります。先生亡き後は、先生の甥っ子さんが家を譲り受けて、今はその甥っ子さんの息子さんが、家族で暮らしています。昨年のお盆に行った際、先生が詠んでいた俳句を見つけました。と言っても、執筆の際に書き損じた原稿の裏に書きつけたものを、束ねただけのものでしたが、律儀に詠んだ日付も書き添えられていて、句集のようになっていました。先生の詠んだ俳句は何度か読んだことはありましたが、俳句について理解が深まってから読むと、本当に心に来るものがあります。先生が詠んだ俳句については、木・金曜号の俳句回で触れたいと思います。


 こうして、二人の偉大な先生によって、千年狐きつネつきは生まれたのです。また別の機会に、その他の出来事についてもお話しすることにしましょう。
 不束者ですが、今後ともどうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m


◆きつネつき 今週の一句

 花びら来ふだん死人を洗ふ手に
           きつネつき

【解説】
季語 : 花びら(はなびら) 晩春
 桜の花びらのこと。載っていない歳時記もある。
俳句や和歌などの詩歌(しいか)の世界では、
 「花=桜」「君=恋愛相手」
など、暗黙の了解がある。

 人間の手はとても技巧的。技術の進んだ現代のロボットでも、その精巧な動きは再現できないと言われている。僕も最初は苦労した。
 あなたのその手はいつも、自分のために、誰かのために、使われている。人間の手は、美しい。桜の花びらもきっと、あなたの手を祝福してくれると信じて。



 今週はここまで!次回もお楽しみに!
 最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(_ _)m


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