行っておまえのすべきことをせよ

コップに注いだ水を眺めたり、口に含んだりすると、「この水と自分の境界線ってどこにあるのだろう」と疑問に思う。
身体が自分ならば、これから取り入れる食べ物も自分ということになる。
ということは、自分と外の世界の境界線は明確ではないわけだ。

水を飲もうとか「あの人と会うのが憂鬱だ」というような思考は、どこから来るのだろう。
ぼーっとしながら、歯ブラシに歯磨き粉をつけるとき、思考なしに動いていたことに気づいて、「この行動はどのタイミングで起こることになっていたのかな」とふと疑問に思う。

そのとき、すべてが「自分」の存在なしで動いていたことを知る。
自分のことさえコントロールできないのだから、他人なんて絶対コントロールできるはずがない。
他人も無意識に行動しているだけだ。
そして、その他人も「私」の五感を通して存在しているのだから、他人も「私」の一部であり、そして、無意識に動かされている「私」も幻想なのだから、その「私」の目に映る他人も、やはり幻想なのだ。
どこから湧いてきたのか分からない思考や感情に突き動かされて、内側は始終ざわついているし、身体は自動で行動している。
人間に自由意志は存在しない。
皮肉にも、そのことに気づいてからはじめて人は自由になれる。

ゆるせないあの人の行動も、そうなるようになっていただけ。
自分が同じ立場に置かれたら、その人とまったく同じ行動をとるのだ。
すべての人は、プログラミングされた通りに行動するだけ。
起こることが、起こる。
だから、私はこれまでの自分を許そうと思う。愛そうと思う。
そして、自分を傷つけたと思われる(思い込んだ)人たちを許して、愛そうと思う。
その人はその人でやるべきことをやったのだ。
「行っておまえのすべきことをせよ」
イエスがユダに放ったセリフの意味が、ようやくわかった。
イエスは知っていたのだ。ユダが裏切るというかなしい出来事は、起こるべくして起こっていると。
すべてはすでに書かれているのだ。
そして、ユダは(無意識だが)それに従うしかなかったのだ。
それに善も悪もない。

身体の症状のことで、よく馬鹿にされることがあった。
現在もそれは変わらない。
今日はその時の記憶にとらわれて、一日引きこもって本ばかり読んで過ごした。
ノンデュアリティの思想に触れたとき、「すべては書かれている」という言葉に出会った。
そのとき、誰にどういわれても、自分を愛そうと決めた。
自分というストーリーに忠実に生きる自分を誇りに思う。

世界は自分だ。

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