自分を生きるということ

愛犬の散歩のため外に出た。すっかり歳をとった愛犬は外に出たがる割に中々歩こうとしない。
少し歩いたと思ったらすぐに立ち止まって風を感じたり、草むらに顔を突っ込んだり、池の魚を眺めたりしていた。
そんな愛犬と一緒に時間を過ごしていると、自分もいまを感じずにはいられない。
少し痛い日差しや風の心地よさを感じたり、道に列をなして歩く蟻たちを眺めたり。せかせかしている生活から解放されたようだった。
一瞬一瞬を楽しむことを覚え、「過去も未来も頭の中にしかなかった」ということに改めて気づく。
愛犬と散歩している時間、「散歩が終わったら皿を洗おう」とか未来のことばかりに囚われていた自分。その自分に気付いた時、「時間はあるけどない」というパラドックスに真実をみる。
「私はいない」「他者はいない」「そこにシーン(いま)のみがある」
そして皮肉にも「願い」は「願いがなくなった時(叶わなくても困らないことに気づいた時」初めて叶うことを知った。
ずっと健康や人間関係で悩んでいたが、その問題さえも最初から無かったこと、ヒーリングなどを受けていたがそもそも自分は自分しか救えないことに気づいた。

朝の愛犬の散歩の30分間、これまで得られなかった答えが自分の内側からぽんぽんと湧き上がってきた。
家に帰って答えあわせをするようにノンデュアリティの本を何冊か読み返した。
やっぱり「これ」しかないのだ。
「これ」しかないのに、頭の中で過去や未来を行ったりきたりしながら比較対象を作って苦しんでいる。
感情や思考は来てはやがて去っていくものなのに、思考で感情を引き止める原因を作って、結果をも作り出して悶える。原因も結果も悟りもストーリーだ。
引き寄せの法則や悟りも「まだ体験していない幸福」を得るためのツールにしてしまう。
エゴは「特別な誰か」になりたがる。特別な誰かになるために何かを手にいれようとムキになる。
そうすればするほど、安心感から遠ざかるが、本当の悟りや幸福は日常の中にある。
そのことに気づいた時、「これまで自分は自分の人生を生きていなかった」という虚しさや切ない儚い感情が湧き上がってきて涙が出た。
と同時に「自分が辛いと思っていた問題は最初から無かった」「自分を困らせる他者や出来事は無かった」と知り、安心感に包まれた。
悟りのプロセスに終わりはない。
これからもきっといろんな思考や感情を味わいながら、新しいことを感じていくのだろう。
でももうスピリチュアルな分野(占いとかヒーリングとかチャネリングとか)の探究はやらない気がする。
救うべき自分も他者も存在しないから。

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