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国の未来を語る

―中尾
先日はとても懐かしいお友達に会われたんですよね。
 
―澁澤
そうなんですよ。偶然中尾さんがうちの事務所に来られていた時でしたので、ご一緒しましたね。ミャンマー人のヌットさんという、昔は青年でしたけど(笑)
 
―中尾
今も、見かけは青年でしたよ(笑)
 
―澁澤
私の大学の後輩で、彼がまだ留学生で東京農大にいた頃から、彼だけではなくていろんな大学の中国人の留学生だとかバングラディシュ、内モンゴルの留学生など、主にアジアの留学生たちが12~3人、毎月のようにうちに来て、お酒を飲んで、手作りの料理を食べて、これからの世界はどうなるかとか、自分たちはどっちの方向に行くんだとかそんなようなこと、例えば日本と韓国との問題、それを取り囲む中国の問題とかを本音で語り合う楽しい時間を5~6年もったのです。彼らが卒業するまで。
 
―中尾
それは20年くらい前でしょうか?
 
―澁澤
30年くらい前ですね。そんなことをしているうちに僕がハウステンボスをやめて、マングローブの植林を始めた時、ミャンマーのイラワジデルタで彼に通訳を依頼して農漁村調査をやりました。そこで改めてミャンマーで彼と一緒に時間を過ごしたという経験があります。
 
―中尾
きれいな日本語でしたね。
 
―澁澤
あれをきれいな日本語というかどうか…(笑)
 
―中尾
いやいや、ちゃんと気持ちが伝わる日本語でした。
 
―澁澤
表情から、動作から、体を全部使って、ある意味では正確な日本語ですよね。変なイントネーションがなく、一所懸命伝えようとするから、普通の日本人よりむしろコミュニケーションはうまく取れて、そういう意味では中尾さんの話し方に似ていますね。中尾さんはそれを大阪の人たちのしゃべり方と言いますけど。
 
―中尾
そうですね。熱がこもっていて、とても近いものを感じます。
 
―澁澤
アジア的っていうことですかね。
 
―中尾
そうだと思います。関西とアジアは相性が良いと思います。お互いにすごく明るくて笑いが絶えない。ヌットさんも常に笑顔で話されていましたけど、はっと気が付いてよくよく考えたら、今すごく大変なときですよね。
良く国を出てこられましたよねってお話しましたね。
 
―澁澤
彼は学生時代からアウンサン・スーチーさんの熱烈な支持者だったです。その関係で、当時はまだ軍事政権でミャンマーはほぼ鎖国のような政策をとっていました。その時に日本に来ている留学生でスーチーさんを支援するという活動だとか発言をしていたので、ちょっとひやひやしていた部分がありました。その時にウイグルの留学生たちは日本にいても中国の公安当局に追われていたりとか、我が国の中でも、決して発言は自由な場所ではなかったのです。彼はとても自分の国のことを心配していましたが、軍事政権が倒れてスーチーさんの政権に代わって、彼はミャンマーにとても誇りをもって帰って行ったんです。そんな流れの中で、今回のクーデターが起きたものですから、彼自身の命が本当につながっているかを含めて、彼とは連絡が取れなかったので、とても心配していました。それが2週間ほど前に突然メールが来て、日本に来ましたから会いましょうとなったなった訳です。
 
―中尾
それは心配でしたね。でも、お元気でよかったです。
 
―澁澤
会ってしまえばね、ニコニコ笑いながら、あの調子でまさに大阪人みたいなしゃべり方でね。
 
―中尾
そうなの、サービス精神が旺盛で、そこが大阪人っぽかったです。
 
―澁澤
彼が来たのは、たぶん軍事政権に対抗する民主勢力を支援するとか、あるいはミャンマーでそういう活動ができなければその拠点を日本で作るために来たのかなあと思っていました。当然経済格差もあるなか、必死にお金も集めて、ましてコロナ禍でもありますし、すんなり入国することもできず、ビザを取り、大変な苦労の末、日本に来ているので、余程のことだろうなと思って、こちらも心の覚悟をして彼に会ったんです。金銭的な支援だとかそういうことなのか?と聞いてみたら、彼が来た目的はそうではないと。これだけソーシャルネットワークが世界中に広まってきて、どんなに軍事政権が抑えようとしてもいろんな情報をミャンマーの人たちも持つようになっていて、そんな中であんな政権は長くは続かないんですよと。いずれ軍事政権は倒れるので、そうなった時にもう一度ちゃんとミャンマーという国を再建しなければいけないので、その再建をするときの若者を今から育てたいと。そのために日本に援助してもらえないかということできましたという話を聞いて、とても感激しましたね。
 
―中尾
凄かったですね。この軍事下で将来のことを考えているんですもんね。とにかくこれが収まったらこういう風にしたいってね。
 
―澁澤
しかもその話の最中に、澁澤さんの知っている、あのミャンマー人のご主人は先週行方不明になって、たぶん今頃殺されていますとか、自分の親戚はデモに行って、軍事政権に鉄砲で打たれましたとか、あるいは拉致されましたとか、そういう話が普通に出て来て、その中の会話としてそれに抗うのではなくて、自分は次のミャンマーを育てる人材を育成する仕事をしたい。将来は学校をつくりたいという話をしていましたね。
 
―中尾
切実ってこういうことだというか、私たちって、日本も決して幸せじゃないと私は思っていて、みんなが将来のことを考えているかというと、考えられずに止まっちゃっているなという感覚がすごくあるのですが、そういう意味では同じだと思いました。
 
―澁澤
そうですね。日本人は失われた10年でみんな呆然と立ち尽くしてしまった。「立ちすくむ日本人」ということをおっしゃる方もいらっしゃいましたよね。震災が来てコロナが来て立ちすくんでしまった。
そして、経済はうまくいかなかった。その時に、ミャンマーという経済的には貧しい国で、戦争が起きて、友達が何人も日々殺されたり拉致されたりしている人が、国の未来を語って、しかも非常に明るい表情で熱弁をふるっているというのは、勇気づけられましたね。
 
―中尾
エネルギーをいただきました。
もっと、みんなが気づいて、どうやったらこれを収束させられるのかとか、そういうことを考えてほしいなと思いました。
 
―澁澤
そうですね。
 
―中尾
このラジオの5回目か6回目の時だったと思いますが、ミャンマーのマングローブの植林をした時のお話の中で、ウオンさんという人が出て来て、バゴタに金箔を貼りに行く日が生涯で一番幸せだったとおっしゃっていましたよね。あれから30年ですよね。
 
―澁澤
30年です。あの当時は学生と軍事政権の正面切ってのぶつかり合いというのは意外となくて、それはなぜかというと、国内でそういう争いが起きようとすると、仏教界、お坊さんたちが間に入ってその調整をしてくれたのだと。今回もお坊さんたちが調整をしてくれるだろうと思っていたら、お坊さんたちはそんなことをやると軍事政権から睨まれるんじゃないかとか、資産を取り上げられるんじゃないかと思って、お坊さんたちが守りに入ってしまって、全然役割を果たさなかった。それを彼はものすごく失望していましたね。
 
―中尾
失望されていましたねえ。本当は将来良いお坊さんになるということも憧れではあるんですよね。
 
―澁澤
そう、ミャンマーの場合、国民は2回僧籍に入らなければいけないのですよ。子供の頃と成人になった時と。彼も2回僧籍に入っていましたから、とっても尊敬するお坊さんたちもいらして、彼はミャンマーに帰るときは、自分もひょっとしたらそうなるかもしれない。自分は長男坊ではないし、やはり僧籍に入って社会に貢献したいということも言っていたのですよ。だけど、今のミャンマーの仏教界はダメだという、それが大きな変化ですね。この30年の。
 
―中尾
それを聞いてなんだかとっても悲しくなりました。ちゃんと役割果たしてほしいですよね。
 
―澁澤
それは身分制度ではあるのですけど、カーストがダメだと言っているわけではなくて、それぞれのカーストがそれぞれの役割をちゃんと果たしなさいよと、それが身分制度でもあるわけです。それがなくなってしまって、個人主義や利害優先に走ってしまって、軍事政権の暴走を止められなかったということを彼は嘆いていました。日本にも置き換えられる話ですよね。
 
―中尾
はい。今回はヌットさんにお会いして本当にいろんなことを考えさせられました。

*写真は、澁澤氏がヌットさんとお会いした1999年のミャンマーです。


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