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切り開くということを教えてくれた人

―中尾
先週は私が影響を受けた映画の話をさせていただきましたが、澁澤さんは、ご自身の人生の中で影響を受けたことってどんなことですか?

 ―澁澤
私の場合は、影響を受けたのは、やはり「人」だと思います。
澁澤家に生まれて、その時の澁澤家で僕が知っている人は、ただ一人、自分の父親だったわけです。ですので、やはり父には影響を受けましたね。JICAで専門家になって発展途上国を仕事場にしたこともそうですが、自分がどう目立つかとか、自分の欲望をどう満足させるかという人生ではなくて、何か社会の役に立ちたいという人生を歩んだのも、今思い返せば父の影響かもしれません。
それから、その次は社会人になって、JICAから病気になって日本に戻ってきて、父も同じ時期に病気になって、すぐに亡くなってしまうのですが、その時に手を差し伸べてくれたというか、相談に乗ってもらったのが、当時父が行きつけの料亭の専務だった神近義邦なんです。彼に誘われて私の30代はほとんど彼と一緒に仕事をしました。

 ―中尾
その神近さんにお会いされたのはおいくつの時ですか?

 ―澁澤
私が南米に行く前に長崎バイオパークを立ち上げようという話が昭和51年か52年くらいに起きて来ました。ちょうどその頃私がいた農大の研究室が長崎バイオパークの設計・監修をしていたのです。なぜ私の研究室がやったかというと、父が料亭の専務さんが自然公園をやりたいからというので私のいた研究所に連れてきたわけです。大学の研究者しかいないところに連れてきたので、料亭の専務さんというだけで怪しい人でした。(笑)
教授もニコニコ笑って、澁澤家のボンボン(父)に頼まれたからしょうがないと思って話をしているのですが、父が帰ったあと教授に呼ばれて、窓口はお前がやれということになって、私が担当をすることになるのです。それで私は長崎に通うようになって、自然公園の立ち上げ、昭和54年に立ち上がったと思いますが、それまでお手伝いをして、そこで私は社外の取締役みたいな形でした。昭和54年の暮に私はもうジャイカの仕事で南米に行ってしまいますから、本当に社外取締役、20代の名前だけの取締役です。その当時は取締役が何をするのかさえ知りませんからね(笑)

 ―中尾
長崎に行かれたときは、公園をつくるにあたって、こんな公園がいいなあというイメージをおつくりになったのですか?

 ―澁澤
イメージを作ったのは、私の教授の近藤典生という有名な遺伝の先生です。その先生が長崎の何にもないところの山を見て、「ここは大きい木がないから岩山なんじゃないか、もしも岩山が出てきたら、自分の好きな南米の景色をそこで再現してあげるよ」と。
そういうことで、神近さん以下その当時は30代の農業をやっている人たち全員でスコップをもって山を掘るわけです。すると、本当にスコップ1本分くらい、深さ1m少しくらいで岩にぶつかるのです。それでまさに高さ60m位の岩山を二つ掘り出したのです。そこにサボテンを植えるとか、花を植えるとかの作業で私は行っていました。ですから、私がここに植えようなんて思ったことはなくて、とにかく近い方に大きいサボテンを植えろ、山のてっぺんには小さいサボテンを植えろと。そうすると人間の目は遠近感があるから、その山が高く感じる。そういうような見方。鳥は暗い方には飛んでいかないからネットを張る必要はない。あの出口を暗くしておけばそこから鳥は出ていくことはない。そこで初めて、今の旭山動物園のあべさんたちの共通点である、行動展示の知恵を教わったのです。

 ―中尾
なるほど。鳥の目線ですね。

 ―澁澤
鳥の目線、動物の目線。

 ―中尾
最初って面白いですよね。たぶん大きな遊園地にしても観光地にしても、はじまりがあって、ここはこんな風にすればよいんじゃない?という誰かの発想ですよね。

 ―澁澤
そう、誰かの発想なんです。だけどね、それからずっと仕事をしてきて、本当に腹が立つというか、それじゃないんだよと思うのは、みんなどこかの先進事例を観に行きましょう、教わりに行きましょうというのですよ。行政の人も民間の人もみんなそう言います。そうじゃなくて、ここで、新しいものを作る気概でやらなきゃいけないし、答えは今ここにいる自分たちの頭の中にしかないんだよ、ということを何回言ってもね、みんなどこかで誰かに教わろうとするんです。教わったものはろくなものにならないんですよ。

 ―中尾
だって真似ですもんね。その土地のこと、考えていませんよね。

 ―澁澤
今僕は真庭の仕事をしていて、ここでもお話しましたけど、真庭のよかったところは、先進地に視察に行こうなんて誰も言わなかったです。みんな自分たちで作ろうと。行くときは先進地じゃなくて、遊びに行こうと言って、それこそ山の中の田舎の40代の人たちがみんなお金をためて、オーストリアのウイーンに交響楽を聴きに行こう、ウイーンフィルを聴きに行こうと言いましたね。オーストリアは彼らにとっては遊びに行く場所であって、決してそこで先進的な事例を学びましょうなんて言う人は誰もいなかった。

 ―中尾
それは何でしょう、発想力が乏しいのでしょうか?

 ―澁澤
教育委員をやっていてこういうことを言うのはおかしいのですが、日本の教育はどこかで間違えたと思います。高度経済成長の時はある程度の知識をもってやり方を学んで、みんなで同じ方向を向いて、同じようにやっていかなければいけなかった。そうすると効率的に生産性を上げることができた。ところがそのおかげで、自分たちで考えるという能力を教育では重視しなくなったのではないかと思うのです。

 ―中尾
効率を重視したのですね。

 ―澁澤
ゼロから、頭の中から絞り出していく。頭の中から絞り出して、何にもないところに一歩踏み出すということはものすごく覚悟と勇気が必要なことです。どんなに小さなことでも。初めて生まれた子の育児もそうですよね。それをやるというのは、不安もあるしとても大変で、みんな逃げようとする。僕から見ると逃げようとする。その人たちはものすごくまじめな人たちで、一生懸命やっているのです。だからこそ、先進地の事例を見て勉強に行こうとする、人に教わろうとする。だけどね、それは違うんだなあと思うのですよ。

 ―中尾
逆を返せば、覚悟と勇気さえあれば何でもできるってことですよね?

 ―澁澤
それはねえ、・・・ハテナですねえ(笑)
覚悟と勇気があれば何でもできますけど、見境なくやってもどうにかなるというものではない。
覚悟と、勇気と、よく考えることです。

 ―中尾
たしかに(笑)。

 ―澁澤
前にもここでお話した通り、神近さんは経営者でしたから、経営を開いていく、新しい事業を始めるということは、どこかに教科書があるわけではないので、新しいものを事業として作り上げていく人のエネルギーだとか、モノの考え方だとか、そういうようなことはその人から学びました。今でも時々神近さんは夢に出て来て、そこでいつも喧嘩をしています。「そうじゃない」と神近さんが言って、僕は「そうだと思う」と言っている夢をよく見るのです。そういう意味では彼からは大きく影響を受けています。彼は経営者ですから、最終的にはすべてお金で価値を判断するわけです。だからお金が稼げない人、お金が稼げない事業は社会にとって意味がないのだという考えを貫き通した人ですけど、それではないなと思ってやめて、お金ではない価値というものを40代から探し求めて、その時に一番影響を受けたの、は宮本常一さんです。

 ―中尾
民俗学者の宮本常一さんですね。

 ―澁澤
宮本常一さんに、僕は、直接は会っていません。長男の方と一緒に仕事をしたりとか、宮本常一さんに教えを受けたという人たちにいろんなことを教えていただいたり、サポートしていただいたりしている中で、自分というものを作って行くわけです。まさにお金ではない価値、それが日本という社会、あるいは世界をつくっていたんだということが確信に変わっていって、自分の人生に迷わなくなっていく。それがまさに宮本常一さんだったと思います。
その宮本常一さんを通して、はじめてそこで澁澤敬三という、かつて私が知っている人物につながります。その時の父のこと、その先の栄一のこと、敬三のことがやっと自分の中でストンと落ちたのが、まさに宮本常一さんから逆算していったのです」。
そこから先は、自分自身でしかないのです。自分が自分として生きていく。それが、50代から70になろうとしている今のこの20年間ですね。

 ―中尾
もう少し続きそうですので、次回も続けて伺いたいと思います。

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