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煩わしさと有難さの狭間

―中尾
3月11日は東日本大震災の日ですね。

 ―澁澤
そうですね。早いですね。

 ―中尾
はい。あの時、澁澤さんが吉里吉里という町に入られて聞き書きをされたお話を私は何度か伺ったのですが、とても考えさせられましたので、今日はそのことを聞かせていただけますか?

―澁澤
そうですね。一つの私の原点だったと思います。
大槌町の中の吉里吉里という地区ですが昔から漁村で、井上ひさしさんが「吉里吉里人」という本を書いて、そのモデルになったところですが、過去に何回も津波の被害を受けているのです。

―中尾
そうですね。80年前にも同じくらい大きい津波に遭われていますね。

―澁澤
はい。私が入ったのが7月くらいだったのですが、「聞き書き甲子園」に参加した卒業生たち、OBになった大学生たちが5月くらいから吉里吉里での聞き書きを始めていて、それから2か月くらい経っていましたがまだ皆さん避難所にいらして、ぼちぼち仮設住宅に移り始めていた頃でした。復旧だ、復興だと言ったって、まだ日々生きていくことに必死でした。
まず驚いたことは、2300人の集落なんですが、2300人が2300人を知っていました。

―中尾
それはすごいことですよね。

―澁澤
それからそれぞれの人間関係がその時に確立されていましたから、避難所は何か所に分かれていたのですが、みんなの協力関係が立ち上がるのはものすごく早かったですね。

―中尾
そもそもコミュニティができているというのは、それくらい重要だということですね。

―澁澤
人間はいったいどのくらいの範囲で共感できるかということを山際寿一さんと話した時に、ゴリラは15頭だとおっしゃっていましたが、人間は言葉を持っているから、その言葉を持っていることによって2300人の名前がわかる。たぶん、あのくらいが、人間が共感をできる範囲なんだろうなということをわからせてもらったのもその場所でした。
本当に人は一人で生きられるか…ということは、永遠の命題ですが、こういうことなんだなということを実感できましたし、もっと驚いたのは、藤本さんという避難所のサブリーダーをされていた吉里吉里の神社の宮司さんが、その神社の庫裏の中からこんなものが出てきたとお持ちになったのが、昭和8年3月3に起きた津波に遭ったときの復興計画書だったのです。古い紙でね、たぶん昭和の戦後にもう一度書き直されたんだと思います。その時の津波も到達点などを見ると今回とほぼ同じ規模だったようです。その計画書を避難所のリーダーの方々みんなで読み始めて、とても愕然としました。
昭和8年の人たちのものの考え方というのは、どうやって復興に向かっていこうか、心構えを確認して、それから食料をどう確保していこうか、食料が確保できる地域づくりをどうしていこうか、どうやってエネルギーを確保していこうか、そのためには何を利用しようか、産業をゼロからもう一度立て直す時に、この地域にもともと必要な産業とはどういうものなのか、ということがずーっと書かれていて、そして最後は次世代育成のための学校をつくることが書かれていました。集落を立て直すには人材が全てだと、学校をつくることも自分たちでどうやってお金を集めて、そこではどんな教育をするかということまで書かれている。しかも、それは昭和8年の震災からわずか4か月、確か7月十何日という期日が書かれていましたから、わずか4か月でできている復興計画書なんですよ。今回は皆、避難所で自衛隊やボランティアの助けを借りながら生活している。昭和8年の人たちは、その中で自分たちの手で、今の時点で既に、復興計画書を作っていた。

―中尾
私もそのお話をうかがってすごく驚きました。

―澁澤
毎日生きていくことだけで必死な時に、昭和の先代の人たち、しかも作っているのが全部村の人たちなんですよ。だから避難所にいたリーダーの人たちはみんなその人たちを知っているのですよ。あそこのじいちゃんだとか、いや、俺の父ちゃんだとか。村民がつくっている、しかも顔の知っている村民がつくっていた。国や県がつくった計画書ではないのです。
資金的な裏付けから、何が必要かとかが書いてあって、食料だとか、水はどこから引いてくるとか、エネルギーはどうする、教育をどうする、医療と福祉をどうしていくのかということ。これは今回の避難所で考えている人は誰もいなかったです。それはね、国がやることだとみんな思っていた。

―中尾
そうですよね。役所の方たちが考えてくれて、いつできるの?って、待っている状態ですよね。

―澁澤
食料と水はとりあえず自衛隊さんが持ってきてくれるし、エネルギーは電力会社とガス会社が復旧してくれるし、教育はまさに県や国がやってくれるものだし、医療も全く同じだし。その部分は、お国がやってくれることとして、今この避難所の中から、自分たちはどういう自治をつくっていけばよいか、どういうケアシステムをつくればよいかということが復興だと思っていた。昭和8年は、今僕たちが国や県がやるものだと思っていたことが、自分たちがやることの一丁目一番地だったわけです。当然今と違って経済も発達していませんし、地方行政がそんなに細かいところまでいきわたるということもなかったでしょうけれど、少なくとも自治、2300人が2300人と一緒に手をつなぎながら生きていくというときに、一番何が必要でどこから考えなければいけないかという考え方の基本みたいなものを教わりました。私も愕然としたのですが、避難所に避難されていた住民の皆さんが一番愕然としました。

―中尾
そうですよね。自分で考えることなんだって思いつきますよね。

―澁澤
尚且つ、親父や爺さんたちの代は当たり前に考えていたことを、なんで俺たちの代は考えることではないと思い込んでいたのかと愕然としたのです。

―中尾
考えて良いのですよね。行政が考えるのを邪魔しちゃいけない、それを待たなきゃいけない、追い立ててもいけないみたいな、この感覚って何だろうと思います。

―澁澤
他人事ですよね。何となく自分たちのことをやってくれる、つかず離れずで、行政って向こう側に置いている存在になってしまいましたよね。
その序文にね、「とにかくもうひとつの家族としてもう一回復興しよう」ということが最初に書いてあって、日常生活と産業だとか「業」と言われているものを同時につくりなおしていこう。子供達にも役割があるぞ。子供たちはウサギを飼って、それを食料とすることだということまで書いてあるわけです、細かく。それから「一人のわがままを許さない」と書いています。自分勝手な、今だけ、自分だけ、お金だけ…というようなまさに今の時代を表していますけど、そういう考えは捨てると。みんなでこれから共存共栄を目指すと最初の序文に描かれていました。それもびっくりさせられましたね。

―中尾
そうでないとできませんよね。

―澁澤
それがね、自治ってことなのだなと初めて気づきました。
自治って、なんか出納役を誰がやるとか、祭りの役目を誰がやるとか、行政から与えられたお役を自分たちでこなすことだと何となく思っていましたけど、自治ってこういうことだと初めて分かりました。

―中尾
私もそれをきいて、目が覚めました。やって良いんだというと変な言い方ですけど、そういうことを自分たちで考えて良いのだなと初めて気づきました。

―澁澤
考えなきゃいけないことだったのです。気づきだなんて言う言い方はいけないのです。人間って本当にそういうことがないと気づかないんだなということをまた気づかされました。

―中尾
そうですね。

―澁澤
しかも、気づいても行動に移さないわけですよね。

―中尾
行動に移す… ずーっと課題ですよね。考えることはできるけど、じゃあそれ誰がやるかっていうときに、「私がやります!」っていう人は少ないですよね。

―澁澤
一人か二人がやってもダメなんですよ。全員でやらないと。
一人で生きる責任は持たないといけないけど、一人では生きられないんだということも同時に認めないといけないということですね。

―中尾
そうですね。それはとてもよくわかります。だから、吉里吉里の人たちが、全員が全員を知っているというのは、煩わしくもありますけど、ありがたいことなのですよね。

―澁澤
そうね、その有難さと煩わしさの中間にね、どこに未来の軸を置くかですね。

―中尾
春が来る、心がうきうきするこの時期に必ず震災のことを思い出すというのは、戒めかもしれませんね。

―澁澤
そうしないと未来にも進めないし、あそこで亡くなった方々にも申し訳ないですね。

―中尾
生きている私たちが、残った人が、何をするかですね。

―澁澤
そうです。

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