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古川鈴夏さんインタビュー #1 熱くなりたい自分を見つけるために  2

 「大学時代からプロ選手時代を振り返って」

プロテニス選手を引退して1年間サラリーマンを経験した。古川鈴夏さんの次の夢は・・・ テニスを始めてから、大学時代、プロテニス選手時代、そしてセカンドキャリアに転身と、これからの夢を語ってもらいました。

元プロテニスプレイヤー 茨城県つくば市出身
長崎国体準優勝 東京オープンダブルス優勝 $25000セキショウオープンダブルスベスト4 SUZU×MGT PROJECT
ジュニア育成プロジェクト始動
趣味:テニス・コーヒー・音楽好き http://suzu.coach.tennis@gmail.com

2017年から2019年 プロテニス選手活動
2019年から2020年 機械部品メーカーに勤務
2016年 筑波大学テニス部主将 大学選手権王座準優勝
2019年 精密機械部品メーカー入社
2020年 退社
現在、マス・ガイアテニスクラブ ジュニア担当コーチ&選手活動
http://www.mgtc11.jp/
2022年1月 ロイアルSCカップ シングルス優勝

主将として経験が大きかった
筑波大学に入学、大学で自分の活躍は自分自身でもビックリしています。4年では主将となり、その経験が大きかったんです。
高校の時も主将をしましたが、大学の主将は全く違っていて。主将として学んだことは部員の橋渡しの大切さでした。主将の実績は13年ぶりに大学王座準優勝に輝き、準優勝になりましたが、毎日作る練習メニューが不安でした。不安だから色々な方に助けを求め、そこで教えてもらった練習内容を加え思考錯誤で自分の練習メニューを作っていきました。今、主将を振り返ると「自分一人じゃ無理かな」「キャパオーバーだからみんなの意見を聞かせてもらいたなぁ」と自問自答の毎日で、そうだから人目を気にせずにいろいろな人に助けを求め、分からないことは積極的に聞けたことが自分の幅を広げていました。
それからでした。主将として部員にお願いしたことは「みんなで日本一になりたい」と言ってした。私がやるのではなくてみんなに頼りたいという気持ちに変わっていました。
実は高校生までは人の成功を喜べなかった私だったんです。クラブチームでは当然、個人個人が勝てなければならない。あんまりチームという感じでなかったです。変にライバル視を持ってしまった。でも、大学で主将になっていろんな人を見れる自分になっていました。
こんな経験もありました。植田実さん(筑波大学OB)を知っていますか、デ杯(テニス国別対抗戦)に出場され方なんです。上田さんから「仲間の応援に行くと自分も成長する」と言葉を頂き、今でも心に響いて残ってます。それからなんです。人を喜べる様になり自分自身も喜んでいる。そしたら心が変わってきました。凄く心が成長して、人を喜ぶことが出来るようになった4年生主将でした。
自分が勝てなくても、他が勝てばうれしい、今までは自分がナンバーワンでないと嫌だった気持ちがなくなり、自分が勝つことだけが全てではないのだと。
でも、やっぱり自分が目標に掲げた「みんなで日本一になりたい」大学王座を取りたかった。

プロ選手から引退を覚悟して
筑波大学を卒業して、自分自身でプロテニス選手を決めました。そしてプロ選手として自分にひたすら向き合うことが出来た2年間だったと思います。
プロ選手は良くも悪くも色々で、例えば練習は1日の中でやっても4時間とか5時間で、長く練習して6、7時間です。意外と学生時代とは違いプロ選手は自由な時間が多くなりました。
精神面では、ネガティブの時はいろいろなことを考え「何で今勝ってない」とか、「自分の弱点、強みって何だ」とか考えてました。一番大事なのは「人は人であり、自分は自分」なんですけれど、コントロールが難しかったです。
プロが付いた、肩書が変わっただけなのに、心の形まで変わってしまって、「私がプロだから負けてはならないんだ」と余計な考えが生まれ、負けなけない対戦相手に負けてしまったこともありました。
それから技術面では、私はライジングでボールを打つことが出来なかったんです。私のテニスは、粘ってボールを繋ぐプレースタイルですが、世界のITF(国際テニス連盟)の試合に出ていくと、繋ぐテニスではなく攻撃するテニスでないと勝てないんですよ。戦いに勝ためにライジングでボールを捉える練習をひたすら取り組んだんです。1年間かけてやっと試合の中でライジングボールを打てるようになっていました。しかしライジングが打てるようになってたのに、練習の成果が出ているのか分からない日々が続いて、ライジングが出来ていることを認めず、認めてしまえば練習をやらなくなる自分が怖かったです。これだけテニスを長くやっててもプライドが邪魔をして、自分の弱点を見つめ直す作業に一番苦労をしていました。
プロ選手活動引退を決めたのは、ITFのランキングシステムが変わったこと、茨城県の契約が切れるとなったこと、後は元々やりたかった指導者になりたいと、の考えからです。このタイミングだと思って引退を決めました。


最終章4月10日掲載 「プロ選手を引退、セカンドキャリアとなり夢に向かって走り出す」



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