「大切な人の死」という概念が消える技術について

 わたしが大学を卒業してすぐに父が死んだ。
 病気だった。
 お母さんはずっと泣いているし、妹は……意外と大丈夫だな。妹のことだから何も考えていないのだろう。まあいいんだけどさ。 
 家族がこんな風だったから、お通夜とお葬式はわたしが手配した。
 とにかく慌ただしくてわたしは泣く暇もなかった。
 ただ大変だったとしか記憶にないお葬式で、お経をあげてくれたお坊さんのありがたいお言葉だけは今も心に残っている。

「死は終わりではないんです。ずっと記憶は残り続ける」

 父が死んだときの強烈な気持ち。忘れたくないという切望と、悲しみに打ちひしがれそうになる苦痛は、時間とともにやがて薄れていったけれど、父と過ごした日々は忘れたくても忘れられない思い出になった。

 それは二十一世紀初頭の話だ。
 あの頃はまだ宗教が人の死に寄り添い、大切な人に二度と会えなくなる絶望と悲哀がありふれていて、喪失を題材にした歌や物語が人々の共感を呼んでいた。


 あれから何十年も経った。
 わたしは結婚して子供を産み、その子がすっかり大きくなり、それまでの目まぐるしい仕事と育児の日々を終え、夫とのんびり老後を過ごそうとしていた。
 夫が死んだ。
 父と同じ病気だった。
 かつて父が死んだとき、泣き続ける母を疎ましく思った自分を殴ってやりたかった。
 同じ立場になって初めて分かることがある。
 愛する人を亡くす悲しみはそれを経験した人にしか分からない。
 父を亡くしたときの方がまだ冷静でいられた。
 悲しみに打ちひしがれ泣き崩れるわたしに息子が言った。

「父さんを蘇らせよう!」

 いやいやいや突然何言ってんのこの子は。
 二十歳も過ぎて真理の扉開けちゃった? 
 工学部はスピリチュアル系とは相性悪いと思ってたんだけどな。

「いや無理でしょ。あんた大学生にもなって何言ってんの。死んだ人はねえ、蘇らないの!」
「父さんは蘇るよ! 父さんのデータをかき集めよう!」
「……データ?」

 息子は、夫の写真や映像などのデータを集めて、そっくりそのまま夫を再現しようというのだ。
 かつて父が死んだとき、お坊さんが言った言葉が思い出される。

──死は終わりではない。記憶は残り続ける。

 記憶、つまりデータは残り続ける。
 夫を亡くした直後でなければ、息子の突拍子もないアイデアを一笑に伏していたかもしれない。
 それがいいことなのか悪いことなのか、意味があるのかないのかは分からなかったが、この心にぽっかりとあいた大きな喪失を埋めるには、わたしは何かに没頭する必要があった。

 それから息子と手分けして夫のデータをかき集めた。
 外見を再現するためには映像が望ましい。
 子供が小さい頃はよく家族の動画を撮影したけれど、大きくなってからはほとんどそういうことをしなくなってしまった。
 テレビのインタビュー動画はよそ行きの表情過ぎて不自然だ。
 むかしの動画を掘り起こすしかない。
 DVD-Rなんて今どき再生できるハードがないよ! 
 家族写真や動画を大量にアップしていた無料のクラウドサービスを凍結食らったのが痛かったな。
 それでもどうにか足りない部分はAIで補い、AIで予測不可能な部分は記憶を頼りに手動で付け加えた。
 外見に関しては、VRゲームのキャラクターMODを応用すれば何とでもなる。
 息子は詳しく教えてくれなかったけど、ゲームのキャラをエロっぽくしたりする技術はわりと普通にあるらしい。
 今回はエロ目的ではなく、死んだ夫を再現するわけだが。

 人間を再現するに当たってもっとも難しいのは魂を錬成することだ。
 こちらの問いかけに対して夫なら取り得るだろう反応を再現しなくてはならない。
 人間は完璧ではないが、完璧に人間を再現するのは至難の業だ。
 かつては何のありがたみもなかった何気ない日常を再現するのがこんなに大変だとは。

 それに再現に成功したとしても、それ自身がさらなる時間を生きていくわけではなく、あくまでもその人が死んだときまでのデータに基づく模造品に過ぎない。
 これからさらに技術が発達していけば、死んだ人と一緒に歳を重ねていけるのだろうか。
 XR空間だけで会える人。いや、ホログラムを使えば生活空間に存在し続けることもできる。
 それって大切な人の死を克服したといえるのかな? 
 むかし父を亡くしたとき、過ぎ去る時間が悲しみを薄めていった。
 その人がいないことで解決される問題もあるのだ。
 でもそれは古い人間の考え方で、もしもこれからXR技術がもっと進歩して死んだ人といつでも会える時代がきたら、大切な人の死は克服すべきものではなくなるのかもしれない。

 さしあたってその時代はまだきていなかった。
 わたしと息子はあーでもないこーでもないと議論しながら夫の再現プロジェクトに打ち込んだ。
 そしてついに夫(仮)が完成した。

 わたしと息子はPC画面の前にそわそわしながら待機していた。

「父さんを起動するよ……!」
「やっちゃって!」

 それはまるでむかしのロボットアニメで新型ロボが起動するシーンのようだった。
 しまった! それっぽいギミックの起動ボタンでも作ればよかった。気分を盛り上げるために。
 そんなしょうもないことを考えている間に、画面には夫の3D画像が映しだされた。外見に関しては息子の異様に熟練した技術によって完璧に再現されている。
 問題は魂の方だ。

「おーい! 父さーん!」

 息子がそう呼びかけると、「んーなんだ?」と間の抜けた声が響いた。
 夫の声だ。見事に再現できている。
 わたしはもうそれだけで涙が溢れてきた。
 横を見たら息子も泣いていた。

「俺と母さんで父さんのデータを集めてさ、再現してみたんだけど、どう?」
「どうって言われてもな……よくできてるんじゃないか?」
「わたしが分かる?」
「何言ってんだ。母さんに決まってるじゃないか」

 やった! 成功だ! 
 わたしと息子は抱き合って喜んだ。


 あの成功の日からさらに月日が経ち、XR技術は目覚ましい発展を遂げた。
 息子はXRの技術開発者になり、ずいぶんその分野に貢献したらしい。
 わたしはおばあちゃんになっていた。
 孫は息子によく似たかわいらしい女の子だ。
 息子のお嫁さんからは、「義理母さん、娘をあんまり甘やかさないでくださいよ」なんて釘を刺されているけど、甘やかさないなんて無理無理。息子しか育てたことのないわたしには孫娘がかわいくて仕方ない。

 ある日のこと、わたしは五歳になった孫と一緒に縁側でスイカを食べていた。
 縁側と庭は昔の実家を再現したVRだ。
 はじめて体験したときは感動したものだけど、今ではすっかり当たり前になってしまった。

「おじいちゃんが生きていれば一緒にスイカを食べられたんだけどねえ」
「おじいちゃんにはいつも会ってるよ?」
「それは仮想現実のおじいちゃんでしょう? 本物はもうずいぶん前に死んじゃったからねえ」
「ふーん……いつでも会えるのに。おばあちゃんにもずーっと会えるからね!」
「おばあちゃんが死んじゃっても悲しくない?」
「ううん! 全然悲しくないよ! だっていつでも会えるもん」

 会えるもん……えるもん……もん……

 孫の笑顔が強烈で眩しい。
 おばあちゃん、涙が出ちゃう。
 ちょっとくらいは悲しんで欲しいかな。ちょっとでいいからね。ほんのちょびっとでいいんだよ。
 こうやって思うのもわたしが古い人間だからかねえ? 
 今ではペットもXRで再現できるからペットロスという言葉は死語になった。

 もうすぐ二十二世紀。
 今の若い人は、むかし流行った会いたくても会えない気持ちを歌ったポップスには全然共感できないらしい。
 XRで会えてしまうからね。
 なんとなくそんな時代がくるんじゃないかと思ってたけど、いざその時代がきてみると全然馴染めない。
 わたしも若い頃は古い人たちの考え方を否定していたのかな。普遍的だと思い込んでいる価値観なんてものは生き物と同じで変わっていくんだね。
 今は完全な監視社会だから、正当な理由があれば人やペットを再現するためのデータを集めるのも簡単だ。
 夫を再現するときにデータが足りなくて息子と苦労したのはもはや過去の話というわけ。
 ちなみにデータダウンロードのための許可申請用紙は手書きで判子が必要になる。
 お役所はもうすぐ二十二世紀になろうとしているのに何も変わっていなかった。
 わたしのような古い人間には、そんなむかしながらの慣習が少しばかり温かく感じてしまうのだ。

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