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髪を染めている小学生について考える (ブラック校則問題についても同様)

3時過ぎの仕事中の車から、帰途につく小学生の集団を見かけることがあります。昔では信じられないですが、明らかに髪染めているだろ!!という子を見ます。(地方都市なので、まだごく少数ですが……)

というわけで、小学生で髪を染めていることについて考えた事を整理してみます。要約を書くならば、自由主義と管理主義(規制主義)の誤用、どこまでが社会通念なのか、とかそんな話になっていきます。





小学生の本分本業とは

「やることをやってから、○○する」

私は小学生で髪を染めることに反対の立場です。その大本には上記の考えがあります。ハサミはハサミの使い方があるし、車は車の乗り方があるし。もともと与えられたり、意味づけられた、本質的な要素が人間の作ったものにはこめられています。さて、では小学生とは何か?小学生に与えられ意味づけられた本分本業は何か?と考えるならば、

・一般教養や知識の獲得向上
・社会通念や規範、道徳概念の獲得。言い換えるなら社会性・他者との関わり方を学ぶ時期、

簡潔に言えば、色々な物事を知って考えられるようになる、他人との関わり方や集団的・社会という中での立ち振る舞いをもっと身に着けようね。が小学生の本分だと思います。そうして自律した一人の人間(大人)に近づいていこうねというわけです。

もし仮に、その本分が十分に満たされているなら、髪を染めてもいいと思います。しかし、その本分本業がある程度のラインまでできていないのに、他のこと(髪を染めるという行為)に時間や力を割くのは、間違っていると思います。やることやってから、○○しようよという訳です。





髪を染めること = 社会通念規範からの逸脱

現状、ネットアンケートだと6割ぐらいは、小学生が髪を染めることについて懐疑的・反対的な立場にあるようです。(調査方法とか詳しくはみていないのであれですが、良い事、普通にはなっていない実感はみなさんあると思います。)

今はそんな社会通念なので、髪を染めるという行為は、つまり、社会通念や規範からの逸脱を意味します。

つまり、髪を染める行為は、2番目の小学生が学ぶべき社会通念や規範の獲得に、反していませんか。自分がしたいことや、自分の気持ちは当然大事です。しかし、周囲との調和や調整や協力やら集団行動やらをする上では、自分の気持ちや意志よりも、周囲のルール(社会通念や規範)が上にくることがあります。授業中にはトイレに行かない、どうしてもなら管理者にホウレンソウしてからいくみたいな話と一緒です。気持ちより上にルールがあります。

ルールを理解しようとするでも、人から言われたことにとりあえず従ってみるでも、周りにあわせるでも、なんでもプロセスはいいのですが、自分の意志よりも何かを守る、ルールに従うということを学ぶ過程結果が、社会規範の獲得です。なぜ例外的に、髪を染めるは、破っていい社会規範だよ。髪を染める領域では自分の意思を大事にしていい、本人の自由となるのでしょうか。ならないと思いますし、例外を設けるほど、本当に伝えたいことが伝わりにくくなる弊害もあります。





社会通念や社会規範とブラック校則問題

髪を染めることは、社会通念や社会規範からの逸脱ではない。本人の自由の及ぶ範囲の話だ。という反論があると思います。それも正解でしょう。時代や文化や場所で社会通念や規範が変わるから当然です。多国籍の学校ならば、尚のこと髪の色に拘る方がナンセンスという社会通念の場合もあるでしょう。

大事なのは、それが本当にその時の社会通念や規範に合致しているのか。その獲得の方法として合致しているのかという点です。

下着や靴下は白で統一する。しかも、本当に白か確認するみたいなブラック校則を聞くことがあります。戦後で下着は白が当たり前でみんな白だった時代(紫下着は女を売る仕事の人がつけるものだ!けしからん!とかあったかもしれません。)には、規範になる正当性があったでしょう。しかし、現代では、下着の色は豊富だし、だれがどんな下着を着けようがつけていても気にしない気にならない時代なので、もはや社会通念や規範とはいわないでしょう。その時の社会通念や規範に合致しているのか、常に更新する必要があります。





自由主義者や管理主義者の誤りと、正しい形

子供の自由にさせたい。好きにさせるべきだとだけ繰り返す人間は、自由主義の誤用です。あるいは、自由放任主義ではなくて、教育の放棄です。

ここで話したような話を本人がすべて理解した上で、社会通念ではないしもはやなくなったから染めたい。染めると髪や将来や人に与える影響がこうかわるだろう可能性も理解している。費用も把握している。しかし、それでも自分の主義信条で、染めるという行為を選択する。こうなってこそ、はじめてそこから子供に好きにやらせる。子供の自由となるのだと思います。調べても考えてもわからない部分だから、お試しでやってみるアプローチでもいいでしょう。結局は、自分で自分のことを考えられて、決断できる。これが大人であり目指すべき姿でしょう。

自由とは、自分を無意識や有意識で縛っている鎖やらをひとつひとつ正確に把握して、その鎖を緩めたり、外したりして、一歩を踏み出すことだと思います。その外す手助け知識を伝えて新しい景色を見せてあげられることが教育や真の自由についての教育でしょう。何も知らないわからない人に好きにやってごらんっていう方が無茶ぶり、おかしいよって話です。

一方で、ルールはルールなんだから守りなさいと繰り返すだけの体制側、大人側も教育の放棄でしょう。管理主義の誤用です。

八時半には着席する、トイレはトイレでする、人のものは盗らないみたいな絶対守るべきなルールがあります。価値観の異なる人々をまとめあげて、組織集団の秩序維持のために必要な一番大枠のルールです。

しかし、そこから段々と離れるにつれて、組織集団をどこへ向かわせたいか。どう向かわせたいのかという第2のルール領域になってきます。例えば、甲子園目指すの?そんな厳しい内容で毎日やるの?そんな方法を選ぶ?みたいな。そこを目指すの??そんな風に目指したくないー。等と所属員の多様な価値観がせめぎあってくる領域です。やるならできる限り1位を目指そうとか。緩く楽しくよりも、能力技術の獲得や向上に努めるべきだとか。そんな個々人の価値観が隠れていて現れてきてぶつかる領域です。

他者との価値観の対立や葛藤とは、納得できない!=相手の理屈や価値観がわからない、理解できない!という現象です。なので、ルールだから、と繰り返してもなんの価値観も情報も伝わらないわけで、納得できない方にはなんの足しにもなりません。

相手の知らないことを教えたり、違和感好奇心の正体を見つけ成長させる手助けをするのが教育なのだから、納得できない顔の生徒を前にしてこそ、ようやく違和感を感じとれるまでになったかと喜び、的確に説明することこそ教育だと思います。説明する気がないのは怠慢怠惰ですし、説明できないのなら、それは無知です。教育の放棄です。知らないなら知らないとありのままに伝えて、相手と一緒に答えを探せばいいと思います。





終わりに

というわけで、これまでの論理構造や抽象概念をすべて理解して、皆が共同体のあいまいになりがちな第2領域のルールについて納得するまで話し、その理解度に応じて、誰彼のルール秩序(社会規範や通念)からの逸脱という自由も認める。というのが理想論で理論的解答です。しかし、そこに到達するのが到底難しいだろうから、2023年の地方都市では、小学生は髪を染めないが真だろうと思います。

現実的には、悪貨が良貨を駆逐する問題が頻発しそうです。つまり、ちゃんとわかっていて髪を染める子と、無理解のまま親の教育放棄で髪を染める子は、結果として髪を染めた子という状態では差がなくなるからです。

後者の子は、社会規範や通念なんて意識せずに、したいことをする!!で無理染めたわけですから、当然他の分野生活でも、理解せずに好きなことをする!トラブルを起こす!になります。結果として、"髪を染めている子"はトラブルを起こす!と周りに認識されることとなり、理解した子も理解していない子と一緒くたにされて、わりをくうことになります。(ヤンキーだから髪を染めるのではなくて、髪を染めるような奴だから、ヤンキーだというルールに無頓着な奴というわけです。)

というわけで、現実的な落としどころとしては、中学生高校生ぐらいになるまでは(理解できない子は理解しないできないのだから、)、ルールはルールだから!!で守らせる位が現実的で、一番平穏な気もします。それだけ、ルールのあれこれについて説明できる親や教師もいないし、それを理解できる子もそういないのだから、無理に自由を認める弊害の方が大きい気がするからです。


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