見出し画像

みんな幸せになれたらいいのに。 大前提というか背景

堅苦しいことと自分語り気味なので、フランクな文体で話そうと思う。次の世界から争いがなくなる日という話に続く、序章の序章。自分を深堀して、皆が幸せになればいいという思想の根幹を書いておこうと思った次第。



自分にとっての人生の目標やテーマとは何か

人によっていくつもあってもいいし、どんなものでもいいと思う。さて、自分の場合は、その1つに人間の救済にある。まぁそんな格好つけた言葉じゃなくてかみ砕くと、みんなこの星で生まれて、同じ人間やって、人生を謳歌してるんだから、みんなが誰もが幸せだ~と感じて生きられるような世界がいいよね。とそんな話だ。

でもそれはままならない。お金があった方がいいとして稼ぎまくって、それで最高という人がいる一方で、お金に困って人生くそだと思う反対の立場の人もいるし。一人でやった方が楽しいよという人もいれば、皆でやった方が楽しいという人もいるし。それ以外でも例を挙げればキリがないけど、自分がいいことと皆がいいこととそのバランスは取れない。でも、どちらも肯定して受け入れて全員を含んで、全員で幸せに向かいたいなぁと思う。





宗教の答えのなんか違う 感

そういう興味の向かう先は宗教で、少し勉強してみたことがある。宗教というと堅苦しけれど、要は、○○をすれば、あなたは幸せになれる。救われますよという話なので、”○○をする救われる”  この○○というキーワードを読み解きたいと思ったのだ。イミガワカラナイ!?なエセヤバ宗教もあるので、そこは各自で笑い飛ばすぐらいの軽い気持ちで接してみるといい。

かじった感想でしかないので、もっとちゃんと勉強した人には違うんだろうけれど、なんか違うとしか思えなかった。

まず死後の世界の話。天国とか、極楽浄土とか。死への恐怖や苦痛があって、それを軽減するという意味でそういう死んだあとはいいこともあるかもよという概念がうまれたのは、まぁいい。問題は、○○をすれば死んだ後に幸福になれるという。だから幸福になるために現世を善人で生きようとしている点が、なんか違う。最後の審判に備えて、善人でいようとか。極楽浄土のために、善行を積もうみたいな。

いや、幸せになりたいのは今だし、死んだ後にどうこうじゃなくて、幸せに向かったなら、その向かった分だけでも幸せを感じられる方が、シンプルで分かりやすいでしょと思うのだ。

他には、いまだわからないのが、解脱とか無我の境地だ。我に囚われずに、要は何にも動じない感じない?うろたえない心境になれば、何事もへっちゃらみたいな。無限の防御力を手に入れようというか、そうすればあらゆる苦痛から解放されますの話。感じる心があるからダメなんだから、心を捨てよう=知性や脳いらないよ的に聞こえる。人間辞めます、人間の進歩や進化は全部無駄でしたとも聞こえる。人間の向かうべき先は植物の境地なのか??なんか違う。

隣人を愛せ、右のほっぺを打たれたら左を~。愛を持って自分のできる身近なモノから愛し大切にし、なにかあっても広い心で許容してあげましょう。それで愛と平和になる!!まぁこれはわかるけれども、なんら具体的な方法論がない。いやもっと読み込めば書いてあるのかもしれないが、これも具体的でないからちょっと違う。




身体も心も満たされてこそ、幸せ。

なんとなく紆余曲折あって生まれたのが、言葉で世界を幸せにするだった。イイネとかスキに出合った時に、誰かから認められる、褒められるってすごいと承認欲求を満たすことでみんな幸せになれるのではと思った。褒めること、褒め合うことのエネルギー量なんて微々たるものなのに、その結果や効果のプラス量の方が多いのだから、エネルギー不変の法則を無視して、世界にどんどん+が増えていくと思ったのだ。

まぁ結果的にはこれはちがった。何故なら、私たちには体があるからだ。身体が満足して、心(頭や知性)も満足できなければ、それは成立しないのだ。水がのみたくてしょうがないのに、誰かから褒められた言葉で、渇きはいえない。マズローの欲求段階説みたいなもので、要は、生活基盤がある、ある程度生活に困らない上で、その上に自分らしさ自分のやりたいこともできているという状態でないと、人間は幸せにはなれない。人間の今の生活や暮らしを踏まえたうえで、そこにどう幸せを上積みするのか考えるようになった。

人間の生活や暮らしは、労働(生きるために必要な生産活動、社会全体全員で分け合い社会を支え合う生産活動)、余暇(生産活動以外で自由にできる時間)、休暇(リラックス・睡眠)で構成されている。そして労働は生きるために必要なもの社会を維持するために必要なもので、最低限は必要だ。残った時間の余暇や休暇で、人々は自分の想い想いの活動をする。生産、消費、浪費と言い換えてもいい。今自分がしていることは、生産的なことか。それとも生きるための消費なのか。それとも気分を晴らしたり気分を上げるための浪費なのか。どれも必要だし、それがその人の生き方だ。

であるなら、労働を最低限にして余暇と休暇を最大限にすること。生活はできるとして、その上で自分の想い想いの過ごし方を、最大化できれば、それで幸福になれるはずだと思った。人によって向き不向きがあるし、しやすい仕事しにくい仕事があるから、全員に一律とはいかないけれど、その人に応じて、まぁ多少の不遇職もあるだろうけれども、それも社会には必要なモノなので、多少の差はあれど、その人に応じて、労働の最低限化、余暇と休暇の充実最大化を図れればと思うのだ。




労働の低減化

ここからは具体論よりになってくる。

労働の低減化には、まずは、社会の生活水準をどこに置くかがある。要は24時間営業を求めるから、24時間シフトで働かされるみたいなもので、便利を求めるほど、その便利は自分や誰かに還ってきて労働にあてられるわけだ。便利すぎようとすることで、しわ寄せがくる。

他にも、資本家との闘争がある。一日8時間働かされて、相応の見返りが十分にその労働提供者に還っていれば問題はないけれど、労働は社会に還元されず、労働者に還元されず、資本家の潤いだけになっている部分があるだろう。それは社会のため、生きるための労働ではなくて、搾取と呼ばれるような資本家のための行動になってしまう。システムができて、これまでの仕事が半分の4時間で終わるようになったなら、2時間ぐらい余暇や休暇が増えていいはずなのに。8時間労働は変わらない。これでは労働は減らない。

ただ、どっちも個人の行動というよりは全体のなんとなくの結果の流れ、上にいてルールを作る資本家によって敷かれたレール感がいなめない。なので、個人の私たちがどうこうできない。この辺は、変革者は外からくるで書いた話。社会を抜本的に変えるなら、その内にいる人では難しいという話だ。でも切り開く道はある。




余暇と休暇の充実最大化

労働を減らし、物理的に余暇と休暇のその総量を増やす。あとは、思い思いの活動を各自がする。まぁ今でも現状みんなそこそこ思い思いに趣味やらなにやらをしている。でも言うほど、充実しているのか。もっと何かサポートや手助けやシステムや形があれば、もっと充実できるのではないかと思う。

そもそも充実って何だろう。自分が快い・気持ちいいと満足することだ。快い・気持ちいいとは何だろう。ゲームの面白さで書いたが、知(理性的)、体(感覚的)、心(共感、カタルシスなど)の3点に分類される。

好奇心が満たされたり達成感進歩感を得たり、競争で勝利したり。ただ体を動かしたり音楽の身体感覚で高揚したり、物語を読んで、思いをはせて追想して感きわまったり。なんでもいい。快とはそういうもので、充実とは、快がより満たされることで、つまり、自分が気持ちいいと思うことをもっと気持ちよくする。気持ちいいと思うことをもっと今より前に進めることだと思う。自分の進むべき道を、より遠くまでいくことだ。いけることだ。そこで得る何かだと思う。

遠くに進むにはどうすればいいのかというと、智についてで書いたけれど。自分と似たような道を進む少し先の人から、アドバイス指導をもらうことか。自分と同じ道を歩く似た誰かと意見交換したり、情報交換したり、発表自己表現して指摘を受けたりする。競ったりもする。上からと横からの力が十分にあることだと思う。




情報の構造化とアバターを駆使した新SNSと、少額やりとり

ここまでの長文で、自分の35年間のもやもやの答えを少しずつ書きなぐってきた。現在がこのあたり。具体論に近くになるにつれて専門分野外なので、これから先はどう進むのだろうか。まぁその辺はさておき。

自分と同じような人や、同じ道を進んだ先の人に出会いやすくするために、世の中に溢れている見方や感じ方や、主義主張やら、そういう一切合切を精査して、もっと構造化できないだろうかと思う。雑に言えば、アイドルオタクです!あなたはこんなアイドルが好きかもよと教えてくれる存在や、自分がそのアイドルのこういうところが好き!で盛り上がれる同志と出会いやすくするわけだ。哲学の話がしたいでも、アリの飼育についてでも、少なからずは近しい人や先輩がいる訳で、その人たちや情報と出会いやすくするために、今の検索プラットフォームや、表示のされ方、情報の構造化やあり方を変化させたい。くだらない記事の多さで書いた話。人によって見たいものも見る視点も見方も違うなら、世界や景色の方を、毎回その人なりにカスタマイズするということでもある。一問一答型の検索からの抜け出しでもある。

そして同好とつながるSNSの在り方を模索する必要がある。アバターといれたのは、顔や声や年齢は、自分の道を進むうえで他の人と関わるなかで、邪魔になる事の方が多いと思うからだ。上の情報の構造化とも関連する。

最後には、少額やりとりを挙げておく。余暇や休暇といっても、そこにお金が必要になってくる。資材や道具やなにやらが必要になるわけで。お金がなければ自分の進む道もままならないときもあるし、自分で満足してすすんでるんだから、1円にもならなくてもずっーーと続けていくメンタルも必要だというのも酷だとおもう。そんなハードルも幸せにはいらない。だから、自分が進んだ道は、すすんだ分だけ、それで他の誰かを照らした分だけお金のやり取りが生まれればいいともう。プロのミュージシャンでなくても、金曜夜にお店に立って音楽をひいて、酒を飲みながら音楽を聴くのが好きな人が、気持ちのいい夜になったよとお金を払う。下手は下手なりに、上手は上手なりに。そんなイメージで、自分の価値や自分のしたことが認められて少額でいいからお金になればいいと思う。

自分のしたいことや興味があることをして、近しい価値観の人にあって、仲間ができて、また前に進んで、すすんだ分だけお金として帰っても来て、それを元手にまたなにか前に進んだりできる。

長々書いたけれども、まとめれば、これが私の幸福論だ。シンプルだし、した分だけ、その人に合った分だけ、その人のやり方で幸せになれる。全ての人を受け皿にして、許容して、すべての人をその人に応じて幸せにしたい。




おわりに

さて、途中で少し書いたが、労働と余暇と休暇のバランスを変えていくことは難しいが、道はある。それは、一番最後の余暇と休暇の充実だ。

今は資本家の手に労働が委ねられて、労働を強いられているけれども、余暇や休暇の何が認められ、それで金銭のやり取りも増えれば、労働の比重がへる。資本家の権力やパワーが弱まり、ますます余暇や休暇に時間をさける世界や社会になると思う。

クラウドファンディングとか、個人の技能のやり取りサイトとか、ぎぐ的働き方とか。それもこういう意識の流れの一環だと思う。ただ、もっともっと需要と供給すら飛び越えて、ありのままの自分が、誰かに、それは人により程度の差は様々あれど、認められたり、その自分を十分に自分で誇れる。そんな自分の進んだ道がそのまま誰かの光になる、文字通り現実的に、実用的に、即時的になる世界になりたい。したい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?