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精神的に成熟するとは  その程度も数も圧倒的に少ない理由

題名の件について、整理しておこうと思います。




精神的に成熟するとは

情感・感情(他者への共感、感情移入)と、理性や理知的(自己理解や自制)、社会規範や○○道(人生哲学、社会的な正義幸福論)の3つをできるだけ高度に連結させながら、他者、自己、社会の3つのバランスを均衡させ両立させ続けられていること。

自己定義


例えば、情感・感情やらの共感力が高くて相手の目線に立ったり、相手の気持ちを尊重する能力が高い人がいるとします。しかし、そこに自己や哲学がなければ、相手を大事にしすぎるあまり、自分を殺したり我慢することに繋がりいずれ疲れて破綻したり。今目の前の相手の喜び満足という短期的で明瞭な基準が標準にすり替わって、相手を甘やかすだけになったり。

例えば、自己理解や自制の力が強い人がいるとします。目的意識が強く自己の利益のために腐心できる人です。持論や成功哲学という論理を構築している人です。ただし、そこには自分が行動基準になっているので、相手を自分にとっていいように動かせる、動いいてくれるかという駒として扱い、相手を自分に合せようとして相手が疲れていく。そこには機能と役割だけのギブ&テイクの殺伐とした論理や理性だけのものになります。

例えば、社会にとって幸せは何かみたいな道徳心や正義感が強い人がいるとします。環境運動家として、自然を大事に!!みたいなことを言い続けます。しかし、それだけに囚われていると、今の地球に人類は多すぎるから少なくなるべきだ。いっそのこと兵器やウイルスで人間の数が減ればいい!等と、自分も他人の視点もなく暴走することになります。大志は立派ですが、足元が見えていない状態です。自分も他人もいずれ傷つけ破滅することになり、残ったのは満たされた自己満足の信念だけになるでしょう。


というわけで、どれかに偏って物事を見たり決めたり行動すると、偏った人=精神的に未熟な人に見えます。しかし、全てを均衡させてバランスをとって振る舞うとは並大抵のことではありません。




均衡させて両立させる難しさ

必然性がない

そもそもバランスをとるという必然性が実はありません。自分の得になるわけではないためです。誰から見てもどの立場でも最良の選択肢を模索するという思考回路自体が珍しいのてす。精神的に成熟したいと思う人だけが、その道を選び、徐々に成熟するという構図であり、未熟な人はそもそも目指す気もないので、未熟なままです。


バランスをとる面倒くささ

自分の思考様式が1つに決まっている方が、余程楽でスムーズに決断できます。どちらが自分の得になるのか。自分の考える成功戦略に適しているのはどちらか。相手が得するのはどちらか。環境によいのはどちらか等々。しかし、バランスをとり均衡させるにはその全ての3つの思考様式に精通した上で、さらにその物事の度に、三分の一ずつの均衡点を割り出す必要かあります。実に面倒臭いことこのうえなく、いつか疲れて成熟から離れる人もでてきます。


混ざり合わない水と油

少し前、MTBI診断なるものが流行りましたが、人間の気質や判断の傾向は、感性重視か論理重視かにわかれているのが一般的です。1対9とか3対7とか。割合に差はあれども、その人なりの傾向があります。感性と論理。この相容れないはずの二つを、それでも混ぜたい混ぜようと思い達成できる気質性質能力自体も稀です。



成熟したところで誰も感謝しない

3分の1の均衡点を探るということは、他のどの案よりも中道であり、どの立場の人から見ても、他の案よりも自分の利から遠いプランとも言い換えられます。つまり、成熟したところで、その成熟が人に感謝されるような何かをもたらしたり、その道についてきてくれる人が出てくるのは稀です。100年後や1000年後の未来人は彼の功績を称えるかもしれませんが、それだけ離れて遠くから見ないと真ん中であるかどうか、良かったことかどうかは判断されません。(もし皆が判断できるようなら、とっくにもっとよい社会になっています。)



成熟したいと思う人の母数がそもそも少ない。面倒くさいから疲れる諦めやすい。そもそもバランスをとれる様な気質性質能力を持ち合わせている人も少ない。成熟したところでなにも変わりにくいし感謝もされない。と、ないないづくしてす。なので、こんな険しい山を登れている人は少ないですし、登っていてもその度合(高くは登れない)が低くなりがちなことは、上記の通りです。





終わりに

人生で成熟した人にあったことはそうそうありません。年を取ったからといって成熟するわけではありません。上記の通り、はっきりと言葉にしてみれば自明で、成熟したからといってどうなるわけでもなく、成熟すべきという理由動機づけも実はないからです。

しかし、私は成熟に憧れていますし、それが大切なことだと思います。それができる人が”まともな”人間だとさえ思います。成熟の方がなんか格好いいから~という単なる個人的な価値観も含まれてはいますが、成熟した人は、話し合いが成立するから大切でまともな人間だと思っています。

自分の利や相手の利や社会の利等、どれかに偏っている状態であるならば、いかにその利を最大化するかという考え方しかすることができずに、そこにあるのは話しあいという名の交渉です。損得計算や代わりに○○するから~ 次は○○するから~と、何かのカードを切り合うだけで、話しあいという相互理解とは本質的に異なるものです。

利己的、打算的、合理的、感情的、コスパ的云々、そういう一切合切を完全に切り離して、今、どうするべきか、納得いくまで、色々な視点で、互いに話しあおうよという姿勢や気質性質をもちあわせている人が増える方が、余程世界は幸せに争いのないものになると思っています。


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