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逃げてゆく

てのひらで蟬が自由になつてゆく

抑鬱やカフェオレの層涼しかり

蛸やいま五浦を逃げてゆくたましひ

スクランブルエッグ素足に骨が遊ぶ

呼ぶこゑの何も纏はず遠花火

朝凪に犬の眼をして始発動く

今朝の秋コップに当たる泣けない歯

珈琲の知らずにこぼれ敗戦日

虫鳴くや土の匂ひの抑留記

阿剌比亞の子音は溶けて星月夜

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俳句の世界での出会いに恵まれているおかげで、コロナ禍のずっと前からメール句会に参加させてもらっていた。
大概は自らの選に簡単な評を添えて提出する形式なのだけれど、当初は自分のいただいた句の魅力をうまく言語化できず、選評を記すのにとても時間がかかった。

ではリアル句会ではどうだったかと顧みると、勝手の分からない時分は先達の評を注意深く観察し、評の着眼点やら句評の話法みたいなものを学び取り、大きく場の雰囲気から逸脱しないような語彙を慎重に選んで、アラが出ないよう簡潔に評を述べていた。
結局のところ、周囲の目を気にしすぎるあまり、句会の雰囲気に慣れた頃も、最後の「アラが出ない」ことが最優先になってしまい、好きな句の魅力の源泉に迫れないことがままあった。
そんな調子なので、メール句会の選評段階で、句の魅力を的確に文章化できないのも、むべなるかなである。

コロナ禍で、リアル句会に参加する機会はなくなった。
オンラインの、それもZoomを除けばすべてリアルタイムではない句会を通じて、自分の評の貧困さをいっそう感じざるを得ない。
自らの選ぶ句•好きな句の傾向は明確にあって、「どんな句を選ぶか」=好みは、たぶん「どんな句を志向するか」=実作の傾向とも深い関わりのある事柄だという確信もある。
なのに、句評の定型句に囚われずに好きな句を分析して良さを伝えようとすればするほど、その句の魅力がこぼれ落ちてしまう。
当初よりも句評を記すのに時間はかからなくなったけれど、それは句評のフォーマットみたいなものが意識の中に定着してしまったせいかもしれない。
この句評の話法みたいなものを解体して、言葉を尽くして推敲してなお「なんか違う」感が拭えない。
こうなると、教養、語彙、感性、知識、経験の、あらゆる不足が厭わしい。
「うまく言えないけど素敵」をうまく言いたいのだ。
その先に、自らの句作の実りがありそうな気がするから。

このコロナ禍を生き延びることができたら、その時には少しだけでも成長していたら良いなと思っている。

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