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泣いてみたくて~高樹のぶ子の“不倫小説”というものを読んでみた

街の古本屋の小さなカフェコーナーで その2  

 
久しぶりに恋愛小説を読んだ。高樹のぶ子の本である。どうしてこの小説かというと、百円のレコードや古本を漁りにときどき立ち寄っては五百円の紅茶をオーダーしてだらだら過ごしている小さな街の古本屋の小さなカフェコーナーで、春の終わり頃にこんなことがあったからだ……。
 
「あの~、すみません、ヒスイっていう本、ありませんか」」
 
いかめしい顔をしたブルース狂の店主とボブ・ディランの「ソングの哲学」という新刊本の話で盛り上がっていたら、後ろから女性に声をかけられたのである。店主に声をかけたのだとはわかっていつつも気になって振り返ってみたら、四十代か五十代の、ごく普通のおばさんが立っていた。
 
「ヒスイっていうと、高樹のぶ子の、ですか」
 
店主がすぐに応じたので驚いたが、私以上に女性も驚いたらしい。
 
「あ、そうです、そうです」
 
とてもうれしそうな声だった。
 
今でこそ古本屋の店主に収まってはいるが、若いころはブルースに狂って会社を辞めて離婚して一生を棒に振ってしまったような見境のない男だったので、それが恋愛小説家である高樹のぶ子の、しかも私の知らないヒスイという本を知っているのが解せなかった。恋愛小説とは縁もゆかりもなさそうな顔をした店主が、である。それだけでも驚きだったのに、しかも、である。
 
「確か、不倫の話でしたよね」
 
とまで注釈するではないか。
 
何を隠そう、私は不倫小説に弱い。というか、不倫という言葉に弱い。どうしたものか、恋愛よりも不倫に弱いのである。ひるがえって、店主は不倫よりブルース、本よりレコードというタイプの男である。なのに、その不倫小説をよく知っているようすなのだ。ひょっとして読んだのか、と疑って顔を見ていたら店主は、
 
「ヒスイはしばらく前まであったんですけど、売れちゃいました。それから入ってこないんですよね。それを買った人がとても喜んでくれて、ヒスイの話をしてくれて、それで覚えているんですけど」
 
なるほど、そういうことだったのである。
 
「そうしたら二三日前にもそういうお客さんが来て、だから、あなたで三人目ですよ。ヒスイを探している人。三人とも女性で」
 
はあ、とその三人目の女性は戸惑いながら、そうですよねえと納得して引き下がった。それで私もつい好奇心にかられて尋ねたのである。
 
「あのお、ヒスイって、そんなにおもしろいんですか」
 
「おもしろいっていうのか、泣ける小説らしいんです」
 
「ほおっ。いいなあ。泣ける小説だなんて。俺も読んで見たいなあ。いつごろの本なんですか」
 
そしたら、また店主が割り込んできて。
 
「俺もちょっと検索してみたんだけどさ、2010年に出た本だよ。講談社。それが最近また、新聞の書評で採りあげられたんですよね」
 
「あ、そうです、そうです。文藝評論をやってる斎藤美奈子っていう人が、私、この人の評論が好きなんですけど、朝日新聞で、ラストシーンで泣くよって書いてて」
 
「世界一美しい不倫小説だとかって、買ってった女の人は言ってたなあ。マディソン郡の橋よりいいって」
 
「そりゃ、すごいわ。そりゃもう古本じゃ無理だな、当分」
 
「図書館でも無理らしいよ。その人の話だと図書館は予約がもう何十人も入っているらしいから」
 
「そうなんです。わたしもちょっと近くの図書館で借りられないかなと思ったんですけど、問い合わせたら待ってるひとがいっぱいいて、それを待ってたらいつ読めるかわからないと思うし、すぐ読みたかったのでここに来てみたんです。でも、いいです。ネットで調べて買います」
 
電子版なら確か三百円かそこらですよ」
 
それから三人で少しばかりヒスイのことを話した。
  

読んでみた

 
ヒスイとは「飛水」のことだと、それで知った。地名なのである。話しているうちに私は、恋愛小説を読んで泣いたのはもうずっと昔のことだったような気がしてきた。それで「ここらでまた、いっちょ泣いてみるか」と思ったのだが、私はケチなので、恋愛小説の好きな家人をそそのかしてこの本を買わせてから「二三時間で読み終えるから」と彼女よりも先に味見をさせてもらった。用意万端おこたりなく、テーブルの上にティッシュボックスなど置いてから勢い込んでページをめくったのだったが、その結果……。
 
飛水は岐阜の飛騨古川(高山あたり)にある。小説はそこを舞台にした不倫モノなのだが、出だしからうれしくなるような気の利いた会話が飛び交って、期待に胸をはずませた。簡潔でストレートでそのくせちょっと胸に浸みてくる会話。たとえば、列車の窓に迫る台風の雨風に怯えている乗客の中年男女の会話のシーンでは……。
 

逃げる


 
「(台風は)ゲリラで来る~逃げ出せるわけないんだから」
 
とびくついている男に対して女は、
「逃げ出せるわよ、人間は逃げながら生きているんだもの。わたしは逃げるわ」
 
おおっ、人間は逃げながら生きているんだもの、かよ。でもって、私は逃げるわ、かよ。これはやっぱり猥雑な世事にもまれて生き抜いてきた中年女の台詞というか哲学である。地に足が着いているというか、しっかりしているというか、達観しているというか、厚かましいというか。男だとこうはいかない。緊急事態に直面すると浮き足立って、すぐには逃げられない。男のミエに縛られて、にっちもさっちもいかなくなるまでグダグダ言い続ける。少なくとも私はそうである。
 
そうした中年男女の会話を耳にしながら、主人公の女性は高山本線のその同じ列車に不倫相手と乗っている。
 

桔梗


 
列車が下呂駅を過ぎてすぐのところで線路の脇に桔梗の花が群生しているのを見つけた主人公の辰子は「桔梗は風情からして間違いなく女」だと不倫相手に話す。「それもはかなげでありながらどこか孤独を潔しとする気丈な強さをあらわす花」だと告げる。桔梗の花は紫色でぽってりしている。「それだけで気品があり、孤独でもある」と辰子。女である自分に照らしての言葉なのだろうか。ちなみに、桔梗はこの二人が逢瀬に使っている飛騨古川の旅館の名前(桔梗館)にもなっているぐらい象徴的な花なのである。
 

逢瀬


 
次は、桔梗館で逢瀬を重ねる男女のアレのワンシーン。
 
「そのまま転がった。お膳を蹴飛ばしそうになったが、座布団で膳をどかすと、空いた畳の上でトウモロコシのように剥かれた。わたしの肌は黄ばんでかさついていたが、芳ちゃんの内股で擦られているうち、生麩のように湿度が戻ってきた」
 
擦られているうち生麩のように湿度が戻ってきた、という感覚は男には神秘である。もう、なすすべもない。そうして、最後のときを迎える。
 
「芳ちゃんは~うぐっという妙な声を上げて、液体に姿を変えた~わたしの奥地から地滑りして出て行った」
 
わたしの奥地、である。地滑り、である。男が書いたらこうはいかない。でも、上野千鶴子は怒らないだろうか。こんな場合、フェミニストはどう思うのだろうか。
 
そうこうしているうち、ラストシーンが近づいてきた。途中でホロッとしながらも踏みこたえていたのだが、さあ、ラストシーンだぞ、そろそろ泣くぞ、大泣きするぞ、と思って読み終えたのだが……泣かなかった。
 
俺にはヒューマンな感受性が欠けているのではないだろうか。あるいはどこかで読み違えたのだろうか。考えたけれど、思い当たるのは、ああ、これはきっと女性のための恋愛小説というか不倫小説だったんだよなということぐらいだった。辰子という女性の視点から描かれているので、男としてはちょっと取り残されたような気持ちになってしまったのではないだろうか。わからん。もう一度読み返してみようかとも思うのだが。
 
「ぜったいに忘れないこと、運命への復讐劇」「世界でもっとも美しい愛と命の物語」~講談社のセールストークでこの本はそう紹介されている。運命への復讐劇がいったい何を意味しているのか。ミステリーだと思って、読んでくだされたし。
 
最後に。泣きたかったけど思ったほど泣けなかったので、強迫神経症気味の私はそれがPTSDみたいになって、それ以来、「泣ける本」が読みたくてうずうずしている。不倫小説じゃなくてもいいから、小説というものを読んで思い切り泣きたい。身も世もないぐらい泣いてみたい。それで、あまりヒューマンじゃない男にも泣ける本はないのかと思っていたら、今年の本屋大賞になったクリス・ウィタカの「われら闇より天を見る」(早川書房)という本が泣けるらしいと知った。今度はそっちに挑戦してみようかと思う。週明けにでもまた古本屋をのぞいてみよう。
 
と思っていたら、昨日、5月24日の朝日新聞夕刊にまた高樹のぶ子の恋愛論が載っていた。ウクライナだのトランプだのジャニーズ事務所のセクハラ問題だのチャットGPTだの、情愛の欠けた時代の穴埋めに高樹のぶ子の恋愛小説が求められているのだろうか。

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