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【月報2023年3月】元公僕が地域おこし始めてみた件

トップ写真は、3月11日のおしゃっちの様子です。

3月は、
【3月11日の過ごし方】
【地域と学校と部活動】
【繋げるために行動で伝える】
【様々な被災地から学ぶ】
【震災に特化しない気づき】
【踊りたい】
の内容でお送りします。

1.3月11日の過ごし方

10年前に釜石で働いていた時に2回、そして大槌に来てから2回、合計4回目の3月11日を迎えました。

自分自身は、震災を経験したわけでも、何かを失ったわけでもありません。

そういった状況で、毎回どう過ごせばいいのか分からず、結果として「何もしない」という選択をし続けていました。

今年も、今までと同じようにするつもりでした。

自分以外の経験していないけど、そういった場所にいる人は同じ葛藤があるのかもしれません。

震災を経験してなくとも、同じように祈りを捧げることが出来る人もいるのかもしれません。

自分もそういった人たちを倣って、そういったポーズをとることが出来たのかもしれません。

しかし、ポーズをとるだけだとすると、その日はそういうポーズを取ればいい日、終戦記念日のようになんか黙とうする日という姿勢が残ってしまっては良くないとも思っていました。

そんなことを考えながらどうしようか迷っていたところ、安渡公民館で開催される黙とうとコンサートの写真撮影を頼まれたので、写真撮影のついでに行ってみることにしました。

当日は、海に向かって黙とうを捧げながら「ふるさと」の演奏がありました。

その後、公民館内でのコンサートがありました。

参加してみて今の自分にできることは、3月11日が特別な日である人たちが、思い思いに過ごせるようにすることだと思いました。

そのための一つの方法として写真撮影を自分が担うことで、自分なりの3月11日の過ごし方なのだと思いました。

なにもしない予定だった自分に関わる機会、気づくきっかけを頂いたことは感謝しかありません。

自分はそういうきっかけを頂いた一方で、震災を経験していないので関わるべきではないと思う人もいるのかもしれません。

そう思う人が出ることは十分理解できます。

けれど、震災を経験していない自分にも大槌の震災の事や過去の事を伝えてくれる、教えてくれる人たちがいます。

その人たちの思い、なぜ話してくれたかという思いに応えるためにも、自分自身は震災に関わり続け、伝えて行けるようになりたいと改めて思いました。

いつか将来、なんとなく学び、なんとなく避難訓練し、なんとなく黙とうする日にならないためにも、その日に黙とうするのは当たり前だが、その理由を想いや願いを載せて伝えられるようになりたいと思いました。

それが、過去から今までの人々の思いを残していくことになるのだと思ったからです。

自分自身は、震災を経験した人たちと全く同じ気持ちで追悼することはできません。

けれども、自分自身がなんとなく鳥居の前で礼をしているように、形式的な作法の一つになっては良くないと思います。

ならば、何のために追悼するのかを考える、伝えることが大切にしていきたいです。

また、震災発災当日のことは自分の体験としては知らないですが、今年大槌で過ごした3月11日の14時46分を忘れないでいたいと思います。

大切な人が大切にしている日は大切にしたいと思います。

それはだめなことなのでしょうか?

この内容を考えるのに、かなりの時間を要しました。

けれども一歩ずつ自分も学ぶことで理解していけるような気がします。

2.コミュニティスクール委員会

大槌町コミュニティ・スクール委員会にオブザーバーとして参加させていただきました。

メインとなるグループ協議では「不登校(傾向)児童生徒等への多様な教育機会の確保や学びの場の提供」「本町における部活動の地域移行の可能性」の2つの議題から後者の部活動の地域移行の議題を選んで熟議しました。

まず最初に、学校ではなく地域で部活動が出来る環境を作るときに必要なものについて考えました。

その時に出てきたのが、その競技を教えることのできる人材でした。

そこまで考えて、ふと思い返してみました。

そこで、地域で部活を教えるのに必要な能力は、例えばそのスポーツが上手ということが求められるのか?と思いました。

そこで部活の目的や現状を振り返ってみました。

学校での部活は決して勝つことだけが目的では無ければ、教える人もその競技が上手い人に限っているわけではないという状況でした。

にもかかわらず、最初にその競技が上手く教えられる人を思い浮かんでしまったのは、こうあるべきという固定概念に囚われてしまっていたと感じました。

個人的な意見ですが、別に教える人は競技がうまい人や専門的なスキルだけではなく、様々な意味で子ども達子ども達を育てるのがうまい人が欠かせないと考えています。

逆に競技が上手くても、教えることが得意ではない人、子どもと接するのが得意ではない人もいます。

そして、競技が初心者でも、教えることや子どもとの関わり方が得意な人もいます。

何でも自分自身の経験や能力は、人を育てる力と一致するとは限らないのは明らかですし、未経験者でも教育や部活動に関わる余地が大いにあると思っています。

だから、その競技の出来る人だけに絞り、負担を背負わせてしまう前に、子どもと関われる人、より添える人、調整できる人が必要だと感じました。

ここでふと思い返すと、どれも教える側の大人の視点でしか考えていなかったことに気づきました。

この考えのままでは、結局は大人が想像し出来る範囲の中でしか子供たちは行動できないと感じました。

部活動においても、学校教育と同じく子どもが探求的な学びを出来る場を地域に移行しても提供できる必要があると強く感じました。

そして、地域で子供を育てるといったことには誰でも関われるという点で、部活動の地域移行を通しての入り口に可能性を感じました。

そして、何よりよかったのが、今回のグループワークでは、明確な結論には至らなかったものの、参加者がそれぞれの意見を言い合いなおかつ、認め合う対話が出来たことです。

物事を話し合う場では、目的や内容のみならずその過程の重要性を体感することが出来ました。

こういった場に参加してみて学校教育についてだけではなく、地域や人との熟議のやり方についても学ぶ機会になったので、参加してみてよかったです。

今後もこういった機会に関わっていき、大槌の皆さんのお役に立てたら幸いです。

3.安渡地区津波避難訓練

安渡地区の地震津波避難訓練の「リアカー組立・搬送訓練」の部分に参加しました。

なぜリアカーかというと、自力で津波到達までに高台に避難できない人を搬送するためにより実現性の高い手段だと感じました。

自分は、搬送する際にリアカーの後ろで横から支える仕事をすることになりました。

自分の中で実際の様子をイメージしながら、もし津波が来たら?と思い、時折後ろを振り返りながら高台の安渡分館まで避難しました。

ふくらはぎが結構限界でした(笑)

自分は、海から少し離れた地域に住んでおり、リアカーで人を運ぶことは無いのかも知れませんが、

とここまで言ってかなり間違ったことを言っています。

勝手に自分だけの思い込みで無いのかも知れないと言ってしまっています。

津波はいつどのような状況で来るか分からないですし、自分が事前に自分だけの判断でそうはならないだろうと思った時に限って被害に遭うのが災害だと個人的に思っています。

だからこそリアカー搬送をやってみたのですが、リアカーに乗っている安渡のおばあちゃんのためだけにやったわけではありません。

個人的には同時に大槌の未来を避難させるためにやったつもりです。

なぜかと言うとこれから津波が起こった時、今から年数が経てばそのリアカーに乗っているのは自分かも知れません。

そのためには、今現在リアカーで人を搬送する人がいないとそこに繋がらず、未来へとつながらないかも知れません。

避難訓練といえば、各々の今の状況に合ったことから始めるイメージが強いのかも知れませんが、未来へと行動をつなぐと考えた時、震災伝承と同じく誰もが当事者だと感じました。

4.宮城県の被災地を巡って

3月11日前後に、室崎益輝先生が宮城県の東日本大震災の被災地の巡検に来られたので、そこに一部同行してきました。

自分は、女川・南三陸・気仙沼・名取・岩沼・山元に同行しました。

そこで感じた点を以下に記します。

・ただ単に「逃げる」だけではなく、「それでも~する」

女川で、銀行員だった長男津波を亡くされた方の話を聞きました。

裏に高台があるにもかかわらず、その銀行だけが建物の屋上に避難した結果だということです。

この話と今まで聞いたいろいろな津波避難の話を聞いて感じたことがあります。

津波の教訓として「逃げる」とよく言われますが、それも大事ですが、どんな状況でも「それでも~する」ことが大切だと感じました。

普段、人は社会や組織の中で生きていますが、自分がこう思ったことや本能で感じたとおりの意思表示や行動が出来る事は限られています。

個人的には、自分の思うとおりに行くことなんてほとんどないと思っています。

確かに、組織や社会が不備を是正していくことは大切だと思っています。

その一方で、いじめやハラスメントなどがなくならないのと同じで、人が人と関わる以上、どこかで何かしらの問題は発生すると思います。

そういったときに、取り返しのつかない状況になるために自分で自分の身を守るために行動することは防災に限らず必要なことだと感じました。

組織も上司も部下もガチャガチャみたいなものだと思っているので、外れを引いた時に被害を最小限にするということがこれからの社会で生きるために必要なことだと感じました。

たまたまそういう先生に、上司に、部下に、同僚に、取引先に出会うことは避けては通れないと思っています。

その一方で、いつ自分が組織を運営する側・人に被害を与える側になるのか分からないので、自分がそういう過ちを起こしてしまう可能性があるということを肝に銘じていきたいです。

・「還暦以上は口を出さず」だが・・・

女川の震災遺構である旧女川交番の横の展示に書かれていた「還暦以上は口を出さず」という言葉が非常に印象に残りました。

女川では、それまで町の中心として活躍してきた世代が、将来を担う若い世代に町の将来を託し、盾となって全面的に支えることを表明したことで、世代や業界の垣根を越え一丸となったとのことでした。

この内容を知って、こういった考えもあるのだと思う一方で気になる点もありました。

それは、「還暦以上は口を出さず」という言葉が都合よく解釈されて独り歩きしてしまうのではないかという点です。

個人的にはこう解釈しました。

自分たちはもう十分活躍させてもらったから、これからの未来を担うのは君たちだから、その責任を果たしてほしい。そのための盾になるから。

・今まで町を担ってきた人達の言葉だということ
・未来の世代に活躍の場を譲ると同時に責任も果たしてほしいということ
・口出しはしないが、弾除けにはなるということ

これらが揃っているからこそ言えた言葉だと感じました。

だから、60を過ぎても活躍の場がない人がいるようなところでは機会を奪ってしまうことにもなりますし、若い人から一方的に言うようなことでもないと思います。

「還暦以上は口を出さず」

この言葉が成立するのは、普段からの関係があり、取り残されている人がいなかったからだと思います。

場所によっては、60歳からやっと機会があるところもあるので、そういった人に対して、同じことを強要するのは、本来の意図とは異なると感じました。

だからこそ、この言葉だけを切り取って都合の良いように利用してはいけないと感じました。

女川では、震災前から還暦になる前に町の中心として活躍することが出来たからこそ、発災後にこういった考え方が出来たのだと個人的には思いました。

そして、この町の人たちにとってこの考え方が納得解になったのだと感じました。

・新しい「解」の形

昨年オープンしたばかりの震災伝承施設「南三陸311メモリアル」のラーニングのプログラムを体験しました。

展示物を見るタイプのよくある伝承施設とは異なり、参加者が自分事として考えるラーニングに特化されている印象でした。

南三陸で起こったことを全て伝えたいというよりは、重要なポイントを絞ってより確実に聴き手のものになるように考えられたアプローチだと感じました。

一番印象に残った点は、津波が来た時に離れた「高台」か近くの「建物の屋上」かのどちらに行くかという問いでした。

自分は「屋上」を選びました。

高台にたどり着くことさえできれば安全ということは分かっていました。

しかし、いつ津波が来るか分からない追い込まれた状況で、その行動をすることが出来るか自信がありませんでした。

そして、仮にその答えが間違っていたとしても、現時点での自分の考えを偽ると、次に活かすことが出来ないので意味がないと思ったので、「屋上」を選びました。

その後、高台に逃げたが、その場所も浸水したり孤立した話や、小学校の屋上まで浸水した話がありました。

自分が今まで聞いた話でも、単純に「高台」だから、「屋上」だからという話ではなく、時と場合と高さと距離などによって異なるので、一般的にどちらが絶対安全などということは決して言えないと感じていました。

双方のメリットデメリット、そして自分の状況をイメージして事前に考えておくことが、いざという時のより良い行動に繋がる確率を上げると思いました。

それは、車で避難するか、徒歩で避難するかの問いも同様です。

現実の行動は単純な2択ではなく、様々な条件がかみ合わさり、それは自分自身の想像を越えることがある。

だからこそ普段から常に考え続ける事が、いざという時に後悔しない「解」にたどり着くことに繋がると感じました。

今回学んだ事で、人に伝えられることは、どっちがいいかなんてわからないので、自分の立場、状況に応じてまずは自分で考えてみてくださいと言うことでした。

「Q」に対して一問一答のような「A」がないという問いの考え方をこれからも大事にしていきたいと思いました。

そして東日本大震災の被災地に解を求めてくる人に対しても、ここですら絶対的な解はないということを知ってほしいと思いました。

今まで気づかなかった選択肢を増やすことによって、災害に限らず、これからの先の読めない時代を生き延びる可能性を高めることに繋がると思います。

・彫刻で伝える

気仙沼の陣山にある気仙沼市復興祈念公園には「伝承彫刻」と呼ばれるものがありました。

タイトル:よかったね

東日本大震災の最中、さまざまな状況下で被災した人々の記憶から収集したたくさんのエピソードを要素に分解し、再構築して生み出された象徴的な物語を基に具現化された人物像が伝承彫刻ということでした。

そして発災以来、新聞、テレビ等のメディアを通して、震災の客観的事実としての記録は、写真、動画といった形で、既に数多くの視覚的資料として存在しているが、その時の記憶・感情といった主観的事実としての記憶は、当時を体験した人々の心の中にあり、それを表現されたものはごく一部に過ぎないということでした。

タイトル:ごめんね

個人的に解釈すると、実際に起こったことを元に、人が感じたことを人に伝えるためにうまく組み合わせて作った物だと思いました。

タイトル:海へ

人の体験は概要や簡単な説明などの物語としてきれいな分かりやすい導入から入るわけではないと思っています。

そういう意味では、人の主観的な体験から話に入った方が、なぜそんな思いをしているのか?なぜそんなことが起こるのか?という「なぜ?」という思いを生むことになり、それが経験を活かすことに繋がると思っています。

タイトル:水をくみに

そういった面では、感情的に震災で起こったことを感じさせてくれるのが気仙沼にある震災彫刻だと感じました。

アートありきの伝承ではないと思いますが、今までなされていなかった取組を見た人がどう感じるのかを知りたいと思いました。

個人的にはこれらの彫刻を見て、起こった事実以上にそれを取り巻く人々の感情や想い、伝えたいことを感じることが出来ました。

そういう意味では伝承彫刻は人の心に訴える伝承の方法だと感じました。

・津波に対する認識の違い

様々な地域で津波の話を聞く中で、東日本大震災の経験や見た津波が人や地域によっては異なることは当然ですが、人や地域によって津波に対する認識も大きく異なると感じました。

津波が来ると思った人や、ここまでの高さは来ないと思った人、過去の景観から津波が来ないと思った人、津波が来ることなど思いもしなかった人など様々だと感じました。

過去に津波が来た、いつか来ると言われていたらしい(当事者はどこまでその認識だったか分からない)地域でも津波の時に避難行動を確実にとれるようになっているかと言えばそうでもないのが現状だと感じました。

だからこそ、従来と同じような震災伝承や防災教育などだけでは、津波タワー、防潮堤、避難階段などハード整備が進んだところで、一番大事な「人が行動する」ことに繋げるのは容易ではないと感じました。

そういった意味で、過去の災害の経験を伝え、多くの人に活かしてもらうためには、語り部などの一つの手段、学校防災教育などの一つの層を対象にするだけでは、今までと変わらないので、様々なつながりを通して広がることが出来れば良いと思いました。

そういった社会の実現に少しでも力添えできれば幸いです。

・おらが町が世界一

これまで、災害で被害を受けた様々な地域を案内して頂きました。

そこではその地域のために尽力されている方々の声を聞きました。

そこで共通していると感じたことは、どこも自分の地域が一番だと考えていることでした。

の震災からの復興まちづくりのハード面やソフト面において、専門家や外部の人からの評価は地域によって異なります。

ややもすれば、この地域のまちづくりは成功した、失敗したという風に言われている現状だと感じています。

その一方で、その地域に住んでいる当事者からすれば外部からの評価よりも(良い評価に越したことは無いが)そこに住んでいる自分たちが今幸せかどうかを大切に考えている人が多いと感じるようになりました。

誤解を恐れず他の話で例えると、今の日本の社会は良くない、過去の政権の失敗だという人もいるかもしれません。

仮にその通りだったとしても、そこに住む自分たちは、自分たちが幸せと思えるようにこの場で生きていくしかないと個人的には思っています。

そういう意味ではまちづくりを成功・失敗などの評価だけを切り取ることは、どの地域で産まれ育とうが選択肢を広げることを目指している社会の動きと逆行しているように感じています。

とある時点での失敗・成功に関わらず、生まれや育ちに関わらず誰もが置かれた環境でより良い未来を描ける社会を拓くためには、どこの地域のまちづくりが良かったからそこだけを観に行こうというだけの視点では足りないのではないか?と思うようになりました。

逆に震災前と比べて数字上では人口がすごく減ったと言われる地域でも、より良い暮らしができる、そういうことを伝えることが出来ればと思いました。

・まとめ

東日本大震災で被災した地域に行くことで、毎回感じることは、この経験を「震災」「防災」などという狭いカテゴリーの中だけで収めてしまってはいけないということでした。

今や、2011年3月11日時点でそれなりの年齢だった自分たちにとっては、東日本大震災の出来事は想定内の出来事であり、伝承施設で展示されているもの、公的な語り部の話、メディア情報などは想像通りのものになっていると感じるようになってきました。

これは、震災の経験が薄い、または無い世代だと感じ方も異なるのかもしれません。

防災の文脈で「想定外」はあってはならないとよく言われていますが、個人レベルでは「想定外」なんていくらでもあると思います。

このような人生の想定外を生き延びるという観点からは、防災の話を防災の話を聞きに来た人に話をするというだけでは、その人たちの想定を越えることは難しいと感じています。

だからこそ、震災伝承活動を通して震災伝承や防災の範囲を越えて、他の分野とお互いに学び合う場になっていくことが出来れば、東日本大震災の被災地で人々が経験したことや想いを末永く伝えて残すことに繋がると思いました。

5.踊りのもたらすもの

東北大学を中心とした留学生と海外の研究者、また同時に大槌を訪れた福島県の高校生向けに臼澤鹿子踊の演舞が披露されました。

大槌の震災から学びに来た方々に対して、震災に関する事だけを学ぶのではなく、大槌の土地や人が昔から続けてきた郷土芸能を通じて、大槌の町、人、そして震災についてより奥深く理解してもらたのではと思います。

そして、エンターテインメント性でも、鹿子の迫力の記憶、拾ったカンナガラなど、学びに来た内容を引き出しやすいきっかけにもなったのではないかと思います。

そういえば、あの角の生えた鹿のようなものがぐるぐる回っているやつを観に行った時に聞いた話で・・・みたいな感じで。

自分も震災伝承に関わる中で、事実と原因の究明や伝え方の模索を検討する一方で、観光など他の分野の手法を通じてより広く深く多くの人に伝えることもできるのではないかと感じました。

そしてただ観たり写真を撮影するだけではなく、自分自身も踊れるように練習を頑張っていきます。

6.今月の大槌

おおつちおばちゃんくらぶに展示されていたデコ鮭たち
3月11日のキャンドル
3月11日のキャンドル

7.おわりに

あっという間にまた1年が経過しました。

ちおことして3年目に突入しましたが、まだまだ大槌では知らないことだらけです。

今年度もよろしくお願いします。

大槌町地域おこし協力隊

北浦 知幸(きたうら ともゆき)

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