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スーパーに行きました

気遣い能力が地に落ちてしまうことがある。

先日、妻と一緒にジムへ行き、バラバラに帰ったのだが私はスーパーで明日のパンと昼食を買った。そして帰ってパンを寝室に放り投げ、昼食を出すと妻から「私の分は!?」と言われた。

「無いよ。いる? ざるそばかエナジードリンクがあるけど」

「カスの二択」

この出来事は妻にとってはなかなかインパクトがあるものだったらしく、「スーパー行くなら言ってよ」と言われた。私は了承したが、何も意地悪で何も言わなかったわけではないのだ。

ジムを出たあと、明日のご飯買わなきゃ、とスーパーへ足を運び、昼飯買わなきゃ、とざるそばを手に取り、エナジードリンクを手にとって会計を済ませた。この最中に、妻のことは一瞬も頭を過ぎらなかったのである。

「どうしてスーパーに行くって言わなかったの? 同じ家に帰る人がいるのに?」

妻が何を言ってるのか分からなかった。私は必要なものがあったから、スーパーに寄ったのであって、妻も何か必要なものがあったらスーパーに行けば済むではないか。帰宅ルートが変わらないのであればなおさらで、私と同じようにスーパーに立ち寄れば良い。

なにか買いたいものがあったのか。でもそれなら、「あー、なら〇〇買ってきてもらえばよかった」とか言うので、そういうものが具体的に浮かんでいるわけでもなさそうだった。

お昼ご飯を買ってきて欲しかったわけでもないらしい。休日のご飯には金をかけないことにしているそうだ。

ますます分からなかった。まず、必要なものがあるのならスーパーに買いに行く。それは、別にそれぞれでも一緒でも良い。例えば2人それぞれが買い物に行って「あー、なら〇〇くんに頼めばよかった」なら分かる。必要なものがあって二度手間になったのだから。もしくは、お米やトイレットペーパーなどの共有物を二人がそれぞれ買ってきてしまって連絡してほしかったというのならそれもわかる。

しかし、今回はどちらのパターンにも該当しない。私は個人的に必要なものを買ったし、それが被ることもなかった。妻は具体的に欲しいものを買い逃した訳ではないようだし、スーパーにはそもそも足を運ばなかった。

なんの問題も生じていない。

唯一の齟齬は、私がスーパーに行くことを妻に連絡しなかったというこの一点である。理屈ではないのだ。スーパーに寄ることを教えてほしかった。特に必要なものはないし、言われたら思い出す程度のものが頭の中にぼんやりある程度のものだけど、連絡してほしかった。

それは例えば「私がスーパーに行くなら必ず連絡するのに」という気持ちかもしれないし「これまでスーパーに行った人は連絡してくれたのに」という気持ちかもしれない。

誤解しないでほしいのは、もし「お米なかったのに」とか「ラップ切れてたのに」ということであれば、私は来た道を引き返して買いに行った。今回、そういう要求がなかったので、なおのこと困惑したのである。何に妻が傷ついたのか、考えても連絡しなかったこと以外は思いつかなかった。

私は、最近そういうやり取りができなくなっている。これは、弁解でもなんでもない。もっと荒い言葉を使うなら、無能になってきている。

例えば、思い浮かんだけど「ま、いっか」で終わらせているならサボりである。ただ、それでも思い浮かんでいる分、意識にはあるのだ。だから、指摘されたりすれば「あー、そんなことあったな」とは思う。しかし、意識にも上がらないと、一番先に思うのは「えっ? 何?」である。

言葉を聞き返すところから始まる。まるで初めてそのことを聞いたかのようなリアクションになる。これは、意識に何度も上がることがなかったために、完全に忘れてしまっているのだ。

こうなると、物事は現状確認から始まる。

なんて……? 何……? 全く知らんが、何……?

重い腰を上げて、状況を理解して、再び腰が重くなる。こんな調子である。

たちが悪いのは、明確に伝えられても浮かぶのは疑問だけということである。〇〇してほしい、と言われても「なんで?」と、素朴に疑問に思ってしまう。思わなくても「何?」と、建設的な疑問より遥かに手前から始まる。認識の確認からスタートだ。前提がうまく共有できていないのだから、当然の食い違いである。 

会話が噛み合わない。お互いの話していることの次元が違うのだ。だから、認識も理解も解決策も全てが双方の合意に至らない。

この次元の違いは妻との会話以外でも感じる。

「それ取ってください」の「それ」が分からない。指さされているのに、どれかわからない。相手が何を欲しているのか、見当もつかない。別に意地悪で言われているのではないし、私も意地悪をしているわけではない。ひどいときには「それ」が名詞であっても、その名詞部分だけが聞き取れない。推察もできない。

それが去年くらいからずっとそうなのだ。

何を言われているのか分からない。言葉一つ一つの意味は分かるのに、意図が分からない。

自分と意見や主張が違って、同意できないけど相手の立場なら私も同じように主張するだろうな、と思うことは何度もあった。しかし、最近はそうではない。意味がわからないのだ。何を問題としていて、どんな解決策を望んでいて、私の主張の何と食い違っているのか、そのすべてが掴めない。

「は? 何? ……え、なんで? どういうこと?」

困惑。ただただ困惑である。何がなんだかわからない。

意思の疎通ができない。話がチグハグに聞こえて、なにか取りこぼした情報があるらしいことだけがわかる。でも、それがなんなのかわからないし、推測もできない。

先述した妻の話で言えば、もし私に思いやりがないという話であれば、思いやりはなかったと思う。というか、何もなかった。あったのは、明日のパンと昼飯のことであり、それ以外は何も考えなかった。買い物をしている最中に妻のことを全く考えなかったし、過ぎりもしなかった。それが事実であり、それが全てである。

そして、スーパー行くなら言ってよ、についても了承したが、恐らくそれは本質ではない。スーパーに行くのであれば逐一報告をしてくださいね、というオーダーではない。なんだかもっと、別のことを頼まれている。

それが、今まで以上に難しい。平たく言えば、今以上に品質の高いコミュニケーションが要求されている。それは、少し前であればできていたことかもしれない。ただ、今できていないことは明確に伝わってくる。

身の回りのこと、生活にまつわること、それが一回りも二回りもおろそかになっている。隣りにいる人が驚くくらいに。お互いに困惑し合うくらいに、何かがうまくいっていない。

スーパーでパンを買って帰る。今日も、昨日と同じだ。それ以上のことは何も無い。

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