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家庭の崩壊を招きます

一つ前のエッセイから削除した文言がある。

『この後は、今日の家事をほとんど妻がやったことを妻はフンフン言っていた。食器はできる限りその日の夜にやっつけること、と、妻は言った。

「家庭のぉ! 崩壊を招きます!」

「はい」

妻はゴム手袋をしながら、シンクの中にある洗い物をテキパキと片付けていった。手が弱い妻と、手がやたらと強い私にとって水場は家事を分ける一つの指標である。でも、私は元気がないと家事全般をやらなくなるので、次第に妻の負担が増えてしまう。そんな中で妻は、家事を全部片付けて私を愛してくれた。

さて、未だ家庭は崩壊の危機である。妻が頑張ってくれているからなんとか形を保っているにほかならない。たくさん愛されたから、というにはあまりに現金だが、この家や生活が妻にとってもう少し楽になるようにしたいと、また思うことができた。』

※※※

愛される話の中に、その傍らで家庭が一つ崩壊しそうになっている様子を入れた。純粋に、この話は一つに収めるには大きすぎるテーマだったので引き抜いて、今日に持ち越すことにした。あるいは、私はこの部分を隠したかったのかもしれない。愛される以上は、こうした悪い部分も含めて愛なのではなく反省すべき点として分けておかなくてはいけない。

家事をしていないのは、一つ、私の怠慢である。そしてもう一つ、そこまでの元気がない。家事とは元気がなくてもするものだが、元気がなければできない領域にあるのもまた家事なのだ。家事をしていない状態は、ひどく不快なものだしそれを態々見せられるほど余力もなかった。そんな言い訳を重ねつつも、私はこの文章も外に出すことにした。

家事は手を付けたら最初から最後までこなさなくてはならない。気がついたらやらなくてはならない。でも、私は気が付かないし気がついてもやらないのだ。

かねてより家事が苦手なのだが、その苦手さというのも折り紙付きだ。まず気が付かない。気がついてもやらない。妻と私で我慢できる限界値が違う。妻のほうが早めに嫌になるが、私がその領域に達するには「意識して頑張る」という抽象的で無茶な基準が盛り込まれる。

そこで妻は具体的な指標を取り入れて私に指示する。例えば食器はその日にやっつけること。洗濯物は積み上げられなくなったら二回分になっていること。様々な基準を妻は私に教えてくれた。しかし、うまくできない。

職場では掃除もできるのに、家では全く上手くできない。私の部屋も、今は服が山盛りになっていて、朝はそこから服を発掘して着ている。自室も、洗濯機周りも、風呂も、キッチンも、あらゆるところが汚しっぱなしなのが私である。

あとこれに、トイレとか、玄関とか、ちっちゃい廊下とかが加わって、リビングの片付けとかになってくるといよいよやる気が無くなってくる。先日も私の枕元があまりにも散らかりすぎて、ついに妻の我慢の限界が来たため綺麗にお掃除された。

私の綺麗と、妻の綺麗は違う。

「バナナの皮が、カビちゃってるでしょう!」

「どこよ」

「もう捨てた!」

「うはは、すまんね」

こんな二人がよく同じ屋根の下で生きてるものだと感心する。家事とは基本的に「不都合を解決する作業」だ。食器がないから食器を洗う。しかし、不都合の価値観が全く擦り合わないと我々のように愛し合っているが家庭の危機という、黒字倒産みたいな状態になるのだ。

そして事実、私のメンタルが終わっている現在、妻の頑張りによって家は保たれている。不幸中の幸いは、我々が異なる価値観を持った人間同士だということを頭では理解している点にある。

私の基準は妻から見ればアウトだし、妻の基準に常に合わせていては私は疲弊する。なので「わかっちゃいるが、悪意を持って押し付けているわけではない」という共通認識の元、家事を積極的に押し付け合ったり担当し合うのが大切なのである。

あとは、喧嘩になるところは先に潰しておくことだ。洗濯は洗濯機が乾燥までやるし、食洗機が半分の食器を肩代わりしてくれる。食洗機のグレードを上げたい話はしているのだが、場所が足りなくて今は頓挫しているところだ。

全ての仕事を機械が都合よく奪ってくれることはないまま、我々は互いが傷つかない喧嘩の仕方を覚えた。

妻は「〇〇でしょぉー?」と私に言う。私も言い返さない。基本的に妻が正しいからだ。妻もそれ以上は言わない。

そして、感謝をする。更に感謝は要求しても良い。「やりました!」と相手に宣言して、都度、ありがとうを精算していく。そうして自分の機嫌が悪くなるスタンプが押されないようにしていくのだ。

だが、それでも私より妻のほうが家事が上手い。私と妻とではクオリティが段違いになる。

ここに来て「私の基準では妻の基準に届かない」というジレンマが発生するのだ。そしてそこでは「具体的な指示が無い場合はやった方の基準に沿うものとする」という、都合のいいルールが発動する。

少し不快だが、家庭の崩壊には至らない。そんな、ちょっと終わりそうでまだ終わらない家で我々は愛を育んでいる。

ただ、育んでいると思っているのは私だけの可能性も全然あるし、最終的にはどちらかが先にいなくなることは将来的に確定している。

だから、我々は互いに互いの機嫌をちょっとだけ持ち合う。悪意はない。ただその信頼で成り立っている世界もあるのだ。

あとは、なんなのだろう。妻はなんで私のそばにいるのだろうか。それはもう、永遠に謎である。

愛が、私達を支えているのだろうか。愛がなくなったら、我々の関係は終わるのだろうか。

何がきっかけで終わるかわからない家だ。

そんな場所で今日も二人は「愛している」と、ささやきあっている。

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