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殺意の針を向けながら。

ピピピピ。

体温計が鳴る。

37.1℃

この、高くも低くもない体温。ここが、一番しんどい。平熱が36℃前半の私にとってこの微妙なあがりかたにおける、別に数値上は大したことのないここが一番山場なのである。ここから、上がるかもしれないし、下がるかもしれない。そして、実際問題、体は怠い。咳も出るし、鼻水も出る。

布団で横になっている。

一週間ぐらい、ただの風邪に悩まされている。

体力をただただ使い、薬を飲んで寝てもなおしんどいという状況において私に残った感情は……殺意であった。

殺すぞ。

なんかいろんなものにイライラしてきた。喉と鼻にいる風邪菌みたいなやつ。意気揚々とバーベキューとかしてそうな奴ら。バーベキューは好きだが人の敷地で騒ぎ立てるやつには我慢ならん。喉とか鼻で騒ぎやがって。西洋医学の力を思い知れ。

ご飯を食べて、錠剤を飲み下す。

毎食後と寝る前に、誠心誠意「くたばれ」と思いながら薬を飲む。気だるい体を最後に動かすのは、そんな殺意であった。

全然別の話だが、私の中で殺意は行動原理で大きな割合を占めることがある。殺意と不安が交互にやってきて、キレながら動き不安から逃げながら動いている。そうやっても動くことには動くので、高校から大学、社会人になるあたりまでは、これらの欲望を飼いならしながら前に進んできた。

最近、不安が大きくて殺意が欠けてきていたが、ここに来て「風邪により復活」という謎の動機で謎の活動を見せている。殺意が懐に潜んでいるのといないのとでは、活動の幅が大きく変わる。もう一歩進むとか、あと少し頑張るとか、気合で踏み込むとか、そういうことができるようになってくる。

近年では、表現における自主規制から動画においても「殺すぞ」という表現は避けられるようになっている。伏せ字になったり、"頃す"という別の漢字に言い換えられたりする。私も安易に使うべきだとは思わない。しかし、殺意こそ良く磨くべきである。目を光らせ、良く研ぎ、的確に相手の喉笛を掻き切れるように、じっと研ぐ。それを優しさで包み、軽く抱えて、ソイツが私に体を預けるその瞬間に、突く。音もなく、ただ静かに。

深く傷をつけたという罪だけは抱え、それを精算できる場所もない。怒りではなく、殺意。深い深い、殺意が、私を突き動かすことがある。

ゆらり、ゆらりと、しかし確かに前へ向けて、私の足は動く。

その殺意は今、風邪に向いている。

薬を飲む。水で飲む。

横になる。アイマスクをする。絶対に許すものか。消えろ。

呪いながら、眠る。小さな小さな敵に向けて、小さく小さく殺意の針を向けながら。

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