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グニャグニャで走る

スポーツジムにいる。

ランニングマシンに乗ってダラダラ走る。時速七キロ、軽いジョギング程度の速度。手をだらんと下げてフラフラ走る。時折手を前に伸ばしてゾンビみたいにしたり、今度は下げた手をヒゲダンスみたいに動かしたりする。顔も変顔にする。唇をツンと尖らせて、ふてくされた顔を作る。

そうそう、この感じ。走るとき私はいつもこうして走っていた。

小学生の頃、週末になると両親は外に出たがった。ランニングをするというので、私はゲームをしたいというと、自転車でもいいからとか意味不明な理論で外に連れ出された。こちらにゲームを辞めるよう要求するときは「ヤダとかそういうんじゃない」と言うし、逆に外に出ることを拒んでも「ヤダとかそういうんじゃない」という。

運動することで心身を健康にすると言っていたが、その結果として育った私は基礎体力が身についたメンヘラなので運動が必ずしも心を豊かにしないことは私が生涯をかけて証明していこうと思う。ともあれ、私にとって、楽しそうに運動することはあまりにも無意味で非生産的な活動であった。

動いてみたら案外楽しいと思われるのも癪だし、実際楽しくない。大体、アスファルトで舗装された道を、足を痛めないためにクソ高い靴を買って走る行為のどこを切り取っても意義を感じなかった。アスファルトは車のための道だ。タイヤが転がりやすいように、硬く強い摩擦を生むように作られている。そんなところを走ろうものなら、踏み出した足は体重や前に踏み出した勢いをモロに受け、主に膝がダメージを受ける。どこが健康に良いんだ。関節クラッシャーじゃねぇか。

しかし、幼き私はそうした不平不満を述べる知識も語彙力も影響力も持っていなかった。ただ、翌日筋肉痛になった私と、それを見て笑う両親が非常に腹立たしい。なにより「パパも筋肉痛だよ」とか言う。

知るか。

そういう記憶が蘇ってきて本当に嫌になるので、私はダラダラ走る。あー、めんどくせぇ〜、と思いながら、それを全身で表現しながら走る。手をブラブラ、足をブラブラ。つまるところ走るというのは、できるだけ足に負担をかけず、体の軸をブラさず、呼吸して、足を一定のリズムで前に出す作業である。きれいなフォームもある。が、そんなところでやる気を見せても疲れるだけだ。

グニャグニャで走る。

あー、もう面倒くさいなー、やめちゃおっかなー。と、いう感じで走る。

傍から見たら「なんでこいつ走ってんだ」と思う感じで。「ふざけた走りしやがって」と思われる感じで走る。このポーズをしているときが一番気分がいい。

それから顔。表情は本当に自由にして良い。危ないので舌さえ出さなければ、だいたいなんでも良い。口をすぼませ、鼻にグッと唇を近づけるように力を入れてから今度はアホみたいにパカーッと開く。そのまま目を半開きにする。

手はブラブラ、脱力。背中も猫背に丸める。今度は背中を伸ばして、手も上にあげる。もう既に整理体操を始めている感じを出す。こっちはいつでも終わってやって良いんですよ、という態度を運動に向ける。

思えば、スポーツというのはいつも私の楽しみを邪魔してきた。先に述べた週末のゲームをする時間を取り上げるのもそうだが、テレビでスポーツがやっているときはガッカリする。日曜の朝、仮面ライダーの時間は毎年数回スポーツに取って代わられた。駅伝とかゴルフが映し出される。

あ、今日、仮面ライダーじゃない。

朝早く起きて、ワクワクしながらテレビを付けたら思ったのと違うのが映る。そこに映るのがたまたまスポーツをしている人だったわけだが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。

それに夜、野球が延長戦になったとかで番組がずれ込んだりする。楽しみにしている番組を見ようと思ったら野球してたり別の番組だったりといろんなプランが崩れる。リアルタイムでも苛立つが、録画が失敗してたりすると本当に嫌になる。

特撮オタクとして早くも沼へと足を踏み入れていた私にとって、社会的に受け入れられている「運動」という概念は非常に煙たいものだった。私が腹を立てているのに、周りの反応といえば「まぁいいじゃないか」ぐらいのものなのである。ひどいときには「これを機に卒業して、運動にも興味を持ったらどうだ」みたいな事をいってくる。

人が不愉快だと言っているのにこの態度。許せん。

そうした過去に遡る鬱憤が吹き出し、満ち溢れた結果、スポーツジムにいる。完全に力を抜いて、だらしなく走る。

あー、面倒くさいなぁ、もう、不思議な力で筋肉がいい感じに付くなら絶対そっちを選ぶのになぁ。

パタパタ走る。

段々、考えることが減ってくる。走ると、余裕がなくなってくるらしい。山とか雲とか、窓から見えるものに意識がいく。最初はその意識も、自転車、信号、と動くものに引き寄せられたが、目の動きが徐々に鈍くなる。心拍数が上がっていくのにつれて、意識して呼吸のリズムを刻んだり、足の着く位置が微妙にずれるのを感じる。体が走ることだけを考えるようになり、走り続けるために必要な動作を組み込んでいく。呼吸、太ももから膝裏を通ってふくらはぎ、足の裏、視界は決まったリズムで決まった方向にブレる。それら全てが一つずつ無意識に吸収されていくと、体は思い切り動いているのに自分が溶けて眠ってしまうような気持ちになる。

意識はコントロールできない。なんとなく呼吸が気になったり、なんとなく空が気になったりしては、すぐに別のところに引き寄せられる。あくまで受動的に、外からの刺激やちょっとした違和感に向く。何も気にならなくなったら、本当に溶けてしまいそうだ。

呼吸。体のブレ。足の運び。手の握り。

鼻と口。消えたモニターに映る自分のシャツ。マシンを踏む足音。脱力する腕。

体はどこも痛くない。走りすぎると喉から鉄の味がし始める。呼吸するとその喉を息が乾燥させて、痛む。足も重くなってきて、歩幅を調整しないといけなくなる。が、まだどれも無い。どれもないまま、三十分が経ったので、体をぐにゃぐにゃにする。絶対に正しくないフォーム。

マシンの「クールダウン」ボタンを押して、ペースを落とす。消毒した布巾でパネルを拭く。マシンを止めて、バーとか手を触れたところを一通り拭く。

止まったマシンの上を歩くと、止まったエスカレーターを歩くときみたいに一歩の感覚がおぼつかなくなる。フワフワする足取りで更衣室へ向かう。ジャグジーが付いているので、入って帰る。

そんな感じで、運動している。

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