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ペン先はいつも自分に向いている。

人の文章を読んでいる。

ただ読んでいるだけでなく、今回は赤ペンで直すことをお願いされた。

「私なんかが、人の文章にとやかく言うなんて……」

という雑念は、開始数分で消えた。

依頼者が私をよく知る友人のYさんだったということもあるだろう。一つ気になると、あらゆるものが気になり始めて、どんどん赤ペンを入れて掘り進めた。

言葉の意味や、細い言い回し、年代が一致しているか、用語は正しいか。文章の一つ一つに「本当にこれでいいの?」と問いかける。そして、気になったものには自分なりの別解を添えたり、質問を書き込んだ。まさに、重箱の隅を楊枝でほじくるという表現がぴったりだろう。

文章で言いたいことがあるのにそこまで言葉がたどり着いていないと「この表現ではこの理屈はつながらない」だの「そのデータでこの結論を出すのは横暴」だのと結論に行き着くまでの道を叩いた。

言いたいことや、文章の伝えたいことが届くようになるまで、何度も何度も文章を直す。最後の方はもはや枕投げみたいに「ここがわからねぇ!」といくつもコメントをつけて直した。おとなしくそれについて直してくれるところと、ここは譲らんとばかりに語句を直さないところがあった。

「うるせーーー!!」というYさんの心の叫びが聞こえてきそうだ。そして私は、苦笑しながら文章を直しているであろうYさんを想像しながら文に手を加えるのが楽しくて仕方がなかった。夢中になって、文句を言いながら良いものを目指して手を動かすのが私は好きだ。

文章を読み、変なところを見つけたとき「俺が言わなきゃ、この文章このまま世に出ることになるぞ」という使命感と「私の編集した文章がこのまま世に出るかもしれない」という緊張感に挟まれる。それでも、文章の整合性を突き詰めていくのは本当に楽しい。共犯になったような気分だ。目の前にあるのは私が書いた文章ではないけれど、一人だけでは書けなかった文章に携われた気分になる。

「……こんなにスッキリするのか」

私の直した文章を見て、依頼者のYさんが言った。どんな感情でその言葉が使われたのか、私は聞くことができなかったが、その一言がとても印象に残っている。自分の書いた文章に対する見方が変わった瞬間に居合わせた実感があった。それが、いい変化だったのか悪い変化だったのかはわからない。ただ、Yさんの文章はとても良いものになったと思う。

Yさん以降にも「文章を直して」と依頼されることがあった。2つ目の文章は数万文字に渡る大作だ。しかし、進める度に違和感がある。

別の文章のはずなのに、気になるところが似ている。それどころか、同じ文章の中で「この表現さっきも気になったな」という場面に何度も出くわした。同じ表現ではないけれど、気になる文章と私が手を加えて直した文章が似ている。誤字でも、文法的におかしいわけでもないけれど、なにか引っかかるのは私の好き嫌いが影響しているようだ。

例えば、解説が無いまま読み手に意見を押し付けるような書き方はすぐ引っかかる。それから、予防線を引くような文章も手が止まる。この二つは、読んでいてよくペンを入れた。

まだ納得していない理屈なのに、説明がないまま話が進むのは嫌いだ。それから、逃げ道を残した表現も嫌いだ。この2つは特に譲れない領域のようだ。

文章に手を加えるまで、自分の嫌いな文章表現など意識したことがなかった。だいたい、嫌いな文章なら本を閉じればいい。だから見たくないものは見なくてよかったのだ。しかし、今回は何がどう気に入らないのかをコメントなり気に入る文章に直すなりして相手に伝えなくてはならない。そうして明るみに出てきたのが、私の嫌いな文章表現である。

そうして自分の嫌いな文章を覚えていくのだが、それによって赤ペン入れはさらに混沌を極めた。「これは、私が嫌いな文章なんだけど……ターゲットの人はどうなんだろうか」という疑問に立ち返ることになったからだ。

私の添削には、言葉遣いの間違いや文法的に明確に違うとわかるものの他に、私個人の好き嫌いによるものが絡んでいる。

原稿に向かいながら「今この手を加えている部分は文法的にも全くおかしさはないただの好き嫌いからペンを入れている部分だ」という自覚をもって文章を直すのは、とても勇気がいる。さらに、私がその文章のターゲット層から離れている場合はなおさらだ。

しかし、最終的には自分の好き嫌いと自覚した上でペンを入れる。そのままにしておくのは、文章の座りが悪いし、ここで妥協すると他の文章でも「さっき見逃したし、まぁいいか」と妥協したところの水準に合わせて文章を読むようになってしまうからだ。あとから「ここは私の好みです」と伝えればいい、それよりも見逃してはいけないところで手を抜くことのほうが怖い。なので、私の添削を受ける人は、私の気になったところがすべて詰め込まれた赤ペン原稿を受け取ることになる。

私の好みは、私自身の価値観や、嫌なことを露骨に反映している。常識でしょ、みたいな感じで話が進んで行くのにはストップをかけたくなるし、逃げ道を残して書かれた文章も、しっかり責任を持って言い切る文章に直したくなる。なので、直しているときには、うんと迷う。好みの問題だと自覚しているときこそ迷う。正しいとか間違っているという明確な基準がないけれど、しかし、しかーし、私は変えたい。だが、それでいいのか、この基準で書き換えて本当に良いのか。

人の文章を添削することを通じて、文章に対するこだわりが明るいところに引きずり出された。それを今まで無自覚だったことが恥ずかしい。さらに厄介なのは自覚してなお自分の好き嫌いを譲ることのできないプライドである。

そうして、悩みに悩んだ結果「もう知らん! 私もここは譲れないんだ。あなたも譲れないならここは直さなくていい!」などと、開き直って夜な夜なペンを入れている。

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