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ピリカさんの歌、聞いたよ。すごく良かった。

いつかの水曜日の夜のことだ。友人のIからLINEが届いた。

「ダイレクトマーケティングなんですけど好きなVの新曲出たから聞いて」

同じ大学で過ごしたIは、経営学の授業を取った者同士に通じる前置きのもと、私に布教活動をしてきた。私は送られてきたリンクをタップする。一般的に、このような怪しいリンクは押すべきではないが、私はIがダイレクトマーケティングを「自分の好きなものを直接相手に叩きつけること」という意味で用いていることを知っていた。全く、よく単位を落とさなかったものだが、テストにはきっと正しい意味を書き込んでいたのだろう。

こうして友人から運ばれてきた一曲を私は再生した。タイトルは「緑風の子と天空島の手紙」、作詞作曲は風街ピリカさん。歌もピリカさんが歌っているが、天空いあさんという方も参加している。

風に命を吹き込む少年は日々、手紙を書いては風に乗せて運んでいた。そんなある日、空から手紙が風に運ばれてきた。そこに描かれていたのは、青の彼方に浮かぶ楽園。少年は手紙の主へ会って、直接自分の見てきた景色を話そうとその楽園へ向かい旅に出る。

風に命を吹き込むとはいえ、少年は風を自由自在に操れるわけではないようで、ときに身を切るような嵐に襲われる。少年にとって風は自分を運んでくれる存在であり、命を吹き込む関係にありながら常に味方というわけではないらしい。風は、穏やかな存在でありながら、立ちはだかる困難でもある。そうした中で、少年は自分の力で楽園を目指して旅を続ける。

そんな物語だ。

物語は歌と、アニメーションによって描かれる。私が特に気に入っている部分は、「この空の向こう君に伝えたい 僕が見てきた世界は こんなに綺麗だって」という歌詞だ。楽園を目指す物語はいくつか読んできた。例えば、今の生活に満足していないとか、あるいは美しい姿の人が存在する先を「楽園」や「運命の場所」と指して呼ぶこともあった。しかし、この物語はそうではない。

楽園は、あくまで天に浮かぶ綺麗な場所で、少年の目的は「見てきた世界がこんなに綺麗だって伝えたい」その純粋な一点のみである。楽園へ向かうのは、自分を変えるためではない。楽園にたどり着くことさえも過程の一つで、少年はただただ「見てきた景色を伝えたい」という一心で手紙の場所を目指すのだ。

この物語を通して好きなところは、物語を紡ぐことに徹している部分である。私は日々、字を書いているので物語に、いかに自分のエゴやメッセージ、あるいは教訓、もっと砕けた言い方をすれば「かくあるべしという模範」のようなエピソードや描写がいかに入り込みやすいかを知っている。善と悪があり、自分の中の理想が悪を打ち倒すカタルシス。あるいは、悪者が痛い目にあうところを見せつけるような寓話。

しかし、この物語からはそうした要素が感じられない。なぜなら、描写に徹底しているからである、と私は考えている。少年の心情、辛いとか悲しいとか、希望とか、きっとそうしたものもあっただろう。だが、それらはあくまで、出来事として物語に落とし込まれている。純粋な物語だ。歌ではあるがしかし、この曲は間違いなく物語である。

なぜここまで、物語を強調するのかというと、私が普段聞く曲は、作者の叫びのような曲が多いからだ。例えば失恋ソングが私は好きだ。好きというのは語弊があるが、メロディが好きで歌詞の意味を最初は聞き取れないままノリノリで聞いているのだが、改めて内容を見てみると「あれ? もしかして、別れてる?」と思うくらいにはちゃんと聞いていない。しかし、それでも歌は主観であり、書き手を通して見た世界が、ドロドロとした灼熱のような感情がギリギリ歌の体裁を保っているような歌が好きなのだ。この溢れ出す気持ち、希望、失望、情熱、自分の中に渦巻く偏見も含めたその全てが叩き込まれて旋律を与えられ喉を焼くような苦しみと共に奏でられる歌。意図して選んでいるわけではないが、そういう曲を好きになる傾向にある。ぐちゃぐちゃになりながら叫ぶ曲、その触れると手が溶けてしまいそうな熱量を含んだ曲。それもまた良い。

そんな中で、友人の勧めてくれたこの「緑風の子と天空島の手紙」は徹底して物語なのだ。そして、少年の願いは首尾一貫して「見てきた景色を伝えたい」そんな願いと意思が満ちている。何より、あたたかく、優しい。眠る前に両親が聞かせてくれるお話や暖炉の前でおじいさんの話す不思議な物語、あるいは草原に座って耳を傾ける詩人の歌。幼い子どもになった気分で、私はこの歌を聞いた。

私はこの曲を作った風街ピリカさんは、名前だけ聞いたことがあった。吟遊詩人をしているバーチャルユーチューバー、画面の向こうにある私達とは違う世界の物語を歌う人。ムーミン谷のスナフキンのようなものだろうか、と、思うなどしていた。何より、詩人とはどんなのもなのだろうかとも思いつつしかし、風の噂程度のものだ。少なくとも私の今居るこの世界でバーチャルユーチューバーの数は千を超える。私も先日バーチャルの体を手にした。そうして、無数に増えている。バーチャルの体を持つことそのものは、もはや珍しくなくなってきた。しかし、だからこそ「別世界の詩人」がうたう歌には、興味があった。いや、友人のIが時折運んでくる異世界の物語を聞く機会が多かったというのが、正確な表現かもしれない。

そして、そのIにこの曲について話したとき「文章にしてほしい」と頼まれた。私はこうして、エッセイを書き連ねることしかできないが、と念を押した上で、こうして筆を取ることにした。

そうした世界観も踏まえた上で、この曲についてもう少しだけ話したい。吟遊詩人とは世界を旅しながら歌う人を指す。ピリカさんの旅する世界は私のいる世界とは違った世界だ。そして、詩人は旅をするため、いつもそこに居るとは限らない。物語が聞き手の心に残ったとき、どうするかといえば聞き手がうろ覚えながら語り聞かせるのである。歌はうたえないから、あくまで物語として、子が寝る前に、あるいは暖炉の前で「これは昔詩人から聞いた。私の好きな話だ」という前置きから始まる物語かもしれない。

物語はそうして語り継がれていく。少しずつ形が変わってしまうこともあるが、しかし、そうして「私の好きな話を一つしよう」と絵本をめくり、あるいは話をそらんじてみせる。幾多のおとぎ話のように、たくさんの言葉で時には別の国の言葉で彼の歌は語り継がれていくのだろう。私がこうして、どんな話であったかを伝えられるように、この物語が好きになり語る人がいる。そして、私達の住む便利な世界では旅する詩人の歌はリンクを指で叩くだけで何度でも聞くことができる。

ピリカさんと、いあさんの歌声、アニメーション、そして詩。私は字書きなので、歌詞を読み返して意味を考えてしまう。そして、どんなお話であったかを他人へと伝えてゆく。ただ、私は文字の世界の住人であるため、それら全てを届けることはできない。

ただしかし、その物語が聞きたくなったとき「風街ピリカ」をたずねれば、音色と共に聞こえてくるだろう。

今日も、彼はどこかで歌っている。

私はこの歌を教えてくれた友人に感謝を伝えたい。そして、この詩人の名は優しく静かな合言葉のように広まっていくだろう。

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