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本業ではないからこそ。

星野源さんのエッセイを読んでいる。

私がエッセイを書くきっかけとなった本だ。とても傲慢だと今なら思うのだが当時は「あ、これならいける」と思ってエッセイを書き始めた。実際に書いてみると、そんなにうまくはいかなかった。書き出しに迷い、うまく話が落とし込めない、そのうえなんだか物足りない。そんな時は、教科書代わりに星野源さんのエッセイを開いている。

何度読んでも、毎回同じところで笑ってしまう。一生懸命だけど適当。そんな微妙なさじ加減の文章がとても好きだ。でも、星野源さんは、エッセイが本業ではない。実際の所、俳優や歌手としての活動の方が多いはずだ。

最近、本業ではない人が手がけた作品にやたらと興奮する。アーティストが本業ではない人の作った曲とか、写真家ではない人の写真、そしてエッセイストではない人の書いたエッセイ。ぐぐっと引き寄せられたものを改めて並べてみると、そうした二足目のわらじばかり集めているような気がしてならない。

本業ではないというのは、趣味とはまた違うものだ。星野源さんのエッセイも、アーティストではない人の曲も、イラストレーターではない人の絵も、実際に売っているものだ。通販でしか買えなかったりもするけれど、それぞれ本、CD、写真集の形をしていて、手作りよりも、売り物を目指して作ったことがよくわかる。何より、本家に対するリスペクトが溢れ出ている。

僕たちラジオやりたい部っ!!!というグループがある。現在noteでラジオを投稿中だ。やまちゃんさん、ちゃりさん、まるさんの三人で1つのページを運営していて、三人でラジオを目指して収録をしている。彼らもまた、ラジオが本業ではない人々だ。

「僕たちはラジオをやりたい。と言っているけれど、まだラジオではない」

メンバーの中で、確かやまちゃんさんがそう言っていた。ラジオは毎回40分もあるし脈絡も無い。しかしそこには試行錯誤とハプニング。そして、ちょうどいいテキトーさがある。

普段は「僕たち」と言っているのに突然「われわれ」という一人称で自分たちを呼び始め、そこからリスナーを「ノットわれわれの皆さん」と呼ぶ。そんな突き抜け方は、テキトーでこそあるが、決して投げやりではない。

興奮する。何故かそこに、感動がある。

本業ではない人たちが、手元にある素材だけでギリギリ精一杯できることをしてみた結果生まれた作品。ただやりたいこと、やってみたいこと、言ってみたいことが、たまたま偶然、自分と共鳴してしまう。noteにはそんな作品が溢れている。

それが仮に、とんでもなくクオリティが低いものだとしても、それは手を抜いたクオリティの低さとは全く別次元のものだ。例えば私のラジオも、第0回と銘打った初回は本当にひどい。しかし、最初の回は本当に何も知らない私の精一杯が形になっている。

収録後にFM放送を聞いた時、体に電流が走った。言葉遣い、話の運び方、コーナー。自分にできることが、まだまだあると知った。

やってみたい。ラジオをやってみたいがために収録するラジオ。曲フリをしてみたいがために始めるラジオは、まさに手段と目的が逆になっている。でも、きっとそれでもいいのだ。

憧れるシチュエーションを思い描き、自分がかっこいいと思うこと、やってみたいと思うことをただやってみる。本業ではないからこそ、それができる。私も本業は塾の先生だ。エッセイストは二足目のわらじである、ラジオパーソナリティは三足目だ。

一方で、そろそろ売り物を目指すこともしてみたいと思っている。本業をリスペクトする上では、自分が欲しいものに限りなく近い何かを作ってみたい。

そんな身勝手が許される場所で、転がりながら文字を書いている。

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僕たちラジオやりたい部ッ!!!(略してラジたい)さんのページは下記のリンクを押してみてくださいませ。
初回は5分くらいのラジたいミニから聞かれるとおすすめです。


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