(5)最初の一人にならなれる。
インターネットの世界は、私が頑張っているかどうかなど、気にしていないようだった。顔も名前も知らない人々と、知り合ったかと言っていいかもわからないやりとりとか、フリーソフトをダウンロードするときや、普通のホームページにさえダミーのボタンがあった。チャットのページに行くと、何となくいる人々や、よく見知った人とダラダラ喋った。
今は5チャンネルになってしまった当時の2ちゃんねるとか、ニコニコ動画を見始めた。すごいクリエイターがたくさんいた。私も何かしてみたかったが、楽器も歌も踊りもできず、絵を描くことも、そもそも動画を編集する技術もない。
ただ、文字だけは書けたので私はブログを始めた。
明確なきっかけは覚えていない。メールアカウントを作ったり、自分のホームページを作ったりすることは簡単だったし、ヤフーでアドレスを作ればアメーバとかライブドアとかでブログを簡単に作れる時代だった。私は、ブログを書き始めた。
ランキングを見れば、とんでもないアクセス数を誇っているブログもあった。私は知名度もなく、アクセス数を稼ぐことが目的でもない。ただただ、表現するにあたって書くことが一番慣れていたのだ。
話すよりも、書くほうが好きだった。考えられるし、消せるし、楽だ。
インターネットの世界は、多くの人がすれ違うだけで終わる。誰かが読んだらしい足跡がつくだけで終わる。ときに「ブログを紹介させてもらえませんか」と打診して、大してアクセス数もない自分のブログに、人のブログの紹介を書いたりもした。人とつながることを避けていたはずなのに、人間関係は避けて通れないものになった。しかし、同時に、切るのも簡単になった。いつでも、自分のブログなんて消してしまえる。アバターで出会っただけの人の名前なんて、覚えてないのが普通だ。
ここにいる人達も、皆死ぬけど、私のブログは、死んでも残る。死んでも残るものを、なにか作ろうと、もがいていた。それさえ、誰にも理解されなかった。それを、言葉にすることができなかったから。伝えることが、できなかったから。ただ毎日、自分しか気が付かなかったであろうことを、書いて残した。自分が書かなければきっと忘れられてしまうであろう些細なことを取り上げる日記を、日々書き続けた。アクセス数は全然増えなかったけれど、満足だった。毎日コメントをくれる人も居た。
大学生も、大人も関係なく、私はアバターの一人として、いずれ忘れられるのが当たり前の一人として、覚えられない一人として、どうせいつか死ぬ一人としてそこに居た。
一日、一日、ブログを書く時間だけは、夢中になれた。ブログを書いていることは言わなかったはずだ。読んでもらったことも、ないかもしれない。アバターとしてそこにいる私は、現実世界の私とよく似た別人に思えた。そのくらい、かけられる言葉も接してくる人の言葉も違った。いいものばかりではなかったけれど、とにかくそこは、昼間の家よりずっと居心地のいい場所だった。
そこにいる間は学校をサボって、夜な夜なパソコンに向かっている自堕落な子どもだという罪悪感から逃れられた。それどころか書いた文章を「面白かった」と言って褒めてもらえる。学校へ行っていない、と正直に書いた記事を読んで、何も言わずに足跡だけつけていった人がいる。否定も、肯定もせず、私の思いを見ても、とやかく言わない人がいる。受け入れてくれるとか、もうそういうことじゃなくて「見てくれた」というだけで、私は満足だった。しかし、居心地が良かったブログも、帰る場所にはならなかった。
あくまで、アンダーグラウンド。一時的に身を置く場所だ。ブログは、アカウントごと消してしまった。
気がつけば中学3年生の冬になっていた。私は私立で通信制の高校へ進学した。通信制なのに、毎日通う校舎もある。サポート校と言う学校だった。ここでも両親は、私の決断を止めなかった。そもそも、その時期から高校を決める輩など殆どおらず、私にとって進学する先は2択しかなかった。それも、一回ずつオープンスクールの本当に最後の回にちょっとだけ参加した上で「こっちがいい」と私立の学校へ行かせてもらった。
その学校は先輩がいい感じに適当で、各々好きなことをしていて、なんというか、一生懸命だった。私もそうなりたいと思ったかはわからないが、少なくとも「あの先輩、すごく元気だったな」と思ったのを覚えている。
どうせ死ぬのに。私のこととか、どうせ忘れるのに。なんだか知らないが、オープンスクールに凄く活き活きと参加していた。先生も、なんかこう、適当だった。パソコンが好きな先生は、ずっとパソコンの話をしてたし、ちょっと控えめな美術の先生は昔画材屋をしていて……と、言葉を多くは語らなかったが「今好きなことをしている」というエネルギーを感じた。
でも、それも大して言葉にはできなかった。
「こっちに行きたい」
学費は高い。私学である。しかし、両親は、行かせてくれた。
高校は楽しかった。体はついていかなかったが、楽しかった。1年生の頃は週に2回行ければなんとかいいほうだったが、頑張って3回行けるようになり、徐々に回数が増えた。その学校では、皆何かしら、好きなものとかこだわりがあった。電車とか、アイドルとか、BLとか、サッカーとか、エロいこととか、流行とか、リストカットとか。いろいろあった。でも、今皆それを好きでやっていた。そして、どこか少し傷ついていた。心のどこかを、擦りむいていて、私と同じように、溝を感じている人も居たのかもしれない。しかし、そこは無理にそれと向き合わなくても、許される場所だった。
一人でいてもいい。カードゲームをしているグループに行けば、歓迎された。私は昔使っていたカードの束を持ってきて戦った。案の定強くない。彼らは圧倒的な強さで私を吹き飛ばした。ときに、ファンデッキという強さを求めないデッキを持ってきて、私と戦ってくれることもあった。
先輩とカラオケに行った。友人とも行った。私は一人が好きだけれど、誰かと一緒にいることも嫌いではなかった。そして、彼らは私をいつでも歓迎してくれたし、声をかけてもそっけない私を当たり前のものとして扱ってくれた。
「おーい、〇〇デュエルしようぜぇ!?」
「いや、今はいいです」
「えぇぇ、じゃあ、■■。やろうぜ」
「おう、やるか」
圧倒的な切り替えの速さで、先輩は別の先輩を誘った。そして私がそれを隣で見ていようが、全く気にせず別のことをしていようが彼らは何も言わなかった。あとから気が変わって「さて、じゃあ次は僕の番ですね」などと言っても、彼らはノリノリで「おぉ!? おめぇ強えのかぁ!?」と、なんのキャラのモノマネなのかわからないセリフで迎え入れてくれた。
とにかく彼らは、私を拒絶しなかった。そして、一人で居ることにおいても寛容だった。先輩とは長くても2年の付き合いだ。同級生とは3年の付き合い。その頃の私は、友達とプリクラを撮ったときに「ずっと友達」と書くのがどうにも気恥ずかしかった。よくいる仲間という意味の「いつメン」とかも「私はいつもいるメンバーとして扱われているのだろうか」と首を傾げた。
私の人間関係は、たった1日でも渡り歩くように関わる人が変化していった。
例えば、登校する時の友達と、勉強するときに隣になる友達と、休み時間話す友達と、放課後に喋りこむ友達は、全員別だった。さらに、文化祭のシーズンになれば、委員会のときだけ関わる仲間や先輩がいた。恋人は登校中と、下校中、それから委員会でも一緒だったので自然と、居る時間は長かった。しかし、私はむしろ別れを意識していて、いつ居なくなってもいい状態を作っていた。
その時の副担任の先生曰く私は「賑やかなグループがあると真ん中に居て、でも、おとなしいチームでも真ん中にいる。それから、感謝している人がたくさんいる。正面から感謝されたことはないかもしれないけれど、自分の家で彼の話をしている子がいるんです」と言っていた。確か、家庭訪問のときだ。実感は湧かなかったけれど、嬉しかった。
小学生の頃、あの部活の写真を見て感じた。「別に居なくても良い」という寂しさが埋められていくようだった。参加し、貢献し、そしてある程度の存在感があれば、誰かが評価してくれる。誰かから「居てよかった」と言われる存在になった。
そして、そうなり続けるのは大して難しくなかった。私は、誰よりも早く手を挙げることにしていたからだ。かつて、スポーツクラブで感じたあの重苦しい時間に学んだことは、高校生になってまた思い出されることとなる。
「誰かやりたい人~」
私はすぐに手を上げた。発表でも、実行委員でも。私と同様に皆不安なのだから、別にうまくなくてもいい、逆にヘタであってもトップバッターであることを褒められた。とりあえず手を挙げる。それから、どうするか考える。教卓へ向かうまでの数歩で覚悟を決め、皆の前に立ち「ところで、昨日のドラマ見た人っている?」などと突拍子もない事を言って注意を引いてから、最終的に話をまとめる。企画を決めるときの役割を振ったりとか、チームのリーダーとか、そういうことを率先してやった。
むしろ、周りの人たちの凄さに気圧されていた。私は3年間不登校だった。同級生も何年か人との関わりを断ったり、うまく馴染めなかった人が多かった。そして、そうした人たちの中には、絵を書くこととか、楽器を弾くこととか、電車に詳しかったり、スポーツが好きだったり、ゲームが強かったり、何かしら入れ込んでいてちょっと頑張った程度では絶対に追いつけない粋に達している人がいた。
インターネットで見たような人々。私には到底なし得ないと思えるほど、好きなことに時間と情熱を注げる人がそこにいた。
もしかしたら、私が彼らと張り合えることは文章を書き続けてきたことであったのかもしれない。しかし、私より文章の上手い人など山のようにいる。なにより、文章にする能力が自分の役に立つように発揮されることはあまりなかった。
むしろ、前に立って話すとか、順を追って説明するとか、そうしたことが求められた。その点に関しては、皆同じスタートラインである。初回を私に取られたところで、班などのチームに別れれば自分の言葉で人に伝えなくてはならない機会は増えていく。そして、私よりもうまく話せるようになる。ただ、最初は緊張するとか、何となく最初は私からという雰囲気もできていた。
でも、私は自分にできないことを成し遂げる人々を見ては感心し、ときに人知を超えた能力のように感じていた。絵を書くとか、折り紙をきれいに折れるとか、楽器が弾けるとか、そうした「すごい!」と思わず声に出てしまう能力を持った人がいた。高校に入ってから身につけた人もいた。
彼らは文化祭になると、飾り付けや、軽音楽部の出し物で活躍したり、課外授業が終わるとグリーン車の切符を得意気に見せてきて「これで帰るんだ!」と言って、解散場所から一目散に走っていったりした。スポーツが上手ければ体育の授業ではもちろん活躍できる。
技術や知識が頭一つか二つ分くらい飛び抜けている人が、この学校には居ることを私はよく知っていた。それも一人や二人ではない。
イラストなら、楽器なら、料理なら、カードゲームなら、電車なら、下ネタなら、パソコンなら。それぞれ一人ずつ「〇〇さんに聞きなよ」と思い当たる人がいた。
しかしその中で、私は飛び抜けて目立つものはなかった。それどころか、どんどん距離が開いているような感じさえする。例えば軽音楽部などは、ほとんどが未経験者なのに文化祭までには、楽器を弾けるようになっていて、2年もするとセッションをしていた。思いのままに音を出せたら、どれだけ気持ちのいいことだろう。
そうした成長に対する、妬みや嫉みをかんじながらも「一番に手を挙げてやる」という意思だけで手を上げ続けた。
そして「なんか知らんが、こいつは一番に動く」という雰囲気ができた。そして、私が一回なにかしてみせると、吸収率が異様に高い私のクラスメイトたちは「そのくらいなら」と言わんばかりに追い抜いていく。そして、いつしかチームの真ん中にいた。
すると次にやることは、後ろの方にいる人に声をかけることだった。あまり喋らない子が居るとすごく気になって、わざわざ声をかけに行った。時折、司会の権限を行使して、能力的な適切さを完全に無視した役職を振り分けることもあった。成果よりも、まとまりが大切だった。一番凄いものは、すごいやつが勝手に作る。むしろ私は、一人ぼっちになる人を、見たくなかった。
かつて私は野球部から逃げ出した。スポーツクラブも、面白くなかった。いつの間にか忘れられてしまう人がいる。私は忘れられたこともあるし、忘れてしまうこともある。だから、ぽつんと一人でいる人を見るとすぐに飛んでいきたくなった。逆に二人以上で仲良さそうにしていると、その輪を乱したくなくて、あまり入っていかなかった。
私は一番の友人もいなかった。
一番得意な科目でも上から何番目だったかわからない。
一番好きなものもない。
そんな私は、ただ、沈黙が生まれる前に「やります」と言って前に出た。一番、便利なやつだったかもしれない。でも、私が一番を取れる場所は、誰も争わない場所だけだった。
誰もやりたがらないところに飛び込むのは、一番になれた。そして実際飛び込んでみれば、大したことはない。大したことはないと分かれば、次々に話が進んでいく。それは、嫌ではなかった。
ーーー
『不登校』という言葉の終わりは、大概はいい経験とか、それでもこうして元気になりました。と、ハッピーエンド締めくくる。完全ではないけれど、生身の人間と関われるようになってきたエピソードだ。
友だちができて、打ち解けられて、自分の居場所もなんとなくできた。もうすでにできたグループに飛び込むのは苦手だけれど、それでも、最初からグループに入るのであれば、大きな苦はなかった。
空想の私の体には引き続き、ロープが巻かれている。人と人の間の溝の中で、何度も話したがゆえによく磨かれている。大学生の時、何度も聞かれ、何度もエッセイのネタとして書いた。
不登校の話、不登校から脱却してゆく話。崖はその部分だけ、明確に凸凹があった。手をかけて、順に登っていけるように、手順に沿って人に伝えられるようになっている。省略し、要点をまとめ、ポイントを押さえてある。
傷付いた部分が、丁寧に保存されている。言えた部分さえ上からワックスでもかけられたみたいに磨かれている。こんなにキレイなものだっただろうか。
この話をする上で出てくる両親は、学費の話をするときだけである。それ以前も、それ以後も、両親にしてもらったことが思い出せない。初めて中古で自分のパソコンを買ったときはどうだっただろう。援助してもらったのだろうか。
学校での話をほとんどしなかったことは覚えている。
それから、この時期しばらく父が単身赴任で家から離れていた。
もうこの時点では、父や母に聞いてほしい話はなかった。むしろただ、学校へ行っていればこんなにも自由なのかと思った。帰ってきてゲームして、寝て、起きられない日も学校へ自分で電話することを母と約束した。
思えば、約束ばかりだった。
何かと引き換えに、学校へ行く約束をした。約束を破るのは当然悪いことだ。唯一、良かったことは約束という名の契約は、不当なものだと分かれば結ぶ前に破棄できるということ。そして、解釈に幅を生む約束をすれば「私はこういうつもりで約束をして、それを守ったのにあなたは守らないのか」と詰め寄ることだってできた。
私達の間には、もはや信頼はなかった。
それにも関わらず、徐々に学校へ行けるようになる私と、安堵する両親には、腹がたった。
私は、彼らの、なんの心配を解消したのだろうか。
たしかに私の手元にはゲームがある。
高校に通うために必要だった学費も工面してくれた。
通った学校には友人がいて、先生がいた。誰もが私の心に溝があることをなんとなく理解していた。だから、距離のとり方にはとても慎重だった。
両親が、文化祭に来たことがある。
先生が「来てくださったよ」なんていって、恥ずかしかったのは覚えている。父も単身赴任から、時期を合わせてきたのだろう。
「よかったな」と、父は言った。
私は「うん」といって、それ以上は話さずにシフトに戻った。
何が、よかったんだろうか。ただ、大人から見た「頑張ってる」にはどうやら該当したらしかった。しかしもうそんなこと、どうでも良かった。私は私の好きにする。
高校の友人たちは、私は何が好きで、彼ら自身も何が好きか、探り、痛くないように、ときに距離感を間違えてすれ違いながらも、なんとかうまく関係を作ってきた。一年かけて、友人たちは私の正直な気持ちと向き合ってくれた。
私は胸を張って家に帰った。でも、すぐに自室に戻った。階段の電気を消し忘れることを、毎回指摘された。めんどくさがりながらそれを消す。
そして布団に体をうずめたり、一応テスト前には勉強をしたりした。
この家はホテルとは、少し違うけれど、利害の一致だなと、ふと思う。この安寧は、学校に行く代わりとか学校に行く頑張りを評価した上で与えられている。
そんなふうに思えた。
また頑張れなくなる前に、別の場所を探さなくてはならない。別の場所を探すのは得意だった。小学生の頃から何度も失敗しているし、あの時よりも、私は随分賢くなった。
家を出ようとか、そんなことは考えなかった。
もう、すでに、今住んでいる家は、指定された約束の元匿ってもらえる場所の一つに過ぎなかった。学校に行けたから、今日はここにいても良い。
学校に行けなかったから、父に怒られる。そのうえで、今日はここにいても良い。
利害関係にすぎない。
私は、ゲームをするには相手へのメリットとして学校へ行くことを提示しなければならなかった。それでも両親は、誕生日やクリスマスには私の欲しい物を与えてくれた。
だから、何もなかったわけではない。あらゆるものを禁止されたどころか、私はその中ではうまく、交渉してはズルをしてきたほうだと思う。
そんなことを思い出しながら、降りてきた崖の一番きれいな部分をよく観察する。母との会話、父とのキャッチボール、休みの日の思い出、日曜日は仮面ライダーを見ていたこと。悪くない日もあった。
しかし、対岸を望めばそれは子供の一足で飛べる距離ではなかった。
両親は、大人なんだ。夜にわたしが苦しんでいようが、見ているときしかわからない。
学校の先生と両親は、同じ大人だった。
実際私が何をしているか、何を考えているかより、「どんなふうに見えたか」が重要らしい。
だからこそ「学校へ行っているんだから満足でしょう」と生活していたように思う。
例えば私は、同級生の自慢話を、両親にしただろうか。どんな科目があったか、テストの難しかったところ、先生のつまらないジョークと初めて知った豆知識。それを私はどの程度、伝えられていただろう。
ただ、そう。
状況が良くなってきて、それが誰先生が何をしてくれたとか、〇〇君がどう声をかけてくれたとか、そうした詳細を聞かないし喋らないままでいるのに、ニコニコしながらやってきて「頑張ったな」と、声をかけられるのは、本当に気持ちが悪かった。
私が何を頑張ったか、お前言えないだろ。
私が何に助けられたか、お前知らないだろ。
言葉にしなくてもわかるわけ無いだろ。
聞かなくてもわかるわけ無いだろ。
泣いてるとき声をかけてれたのはあなたじゃない。
喜ぶ時一緒にいたいのは、あなたじゃない。
よくわからない苦しみが落ち着くまで、隣りにいたのはあなたじゃない。
父の笑顔も、母の安堵した顔も、私が学校に行っている間の期間限定なものに過ぎない。今後もし、仮に私が大学へ行けなかったら。仕事につけなかったら、収入の安定しない仕事へ就こうとしたら。
彼らは、私の話を聞いてくれるだろうか。リスクとか、不安とか、決めるまでのプロセスとか、そんな長い話をすべて聞いてくれるのだろうか。
かつて、就職するときは「好きなようにしなさい」と言った。
苗字を変えるときも「好きにすればいい」と言った。そして相手のご両親には「僕らが聞いた頃にはもう決まってましたからねぇ」なんて、言っていた。
どんなふうに、何を考え、そこに至るかを、知ろうとする気がないか、知るだけの体力がないか、わからない部分に関する質問をする能力がないか。
少なくとも、私の正面に座って話を聞くつもりはあるようで、無い。時間的制約、価値観の相違。そして、それを調節するのにかかる多大なコスト。それを埋めるのには、とても苦労することだろう。
そのせいか「学校に行きなさい」の次は「好きなようにしなさい」らしい。
聞いてくれ。知ってくれ。できれば、解ってくれ。
もし、この距離なら届いたのかもしれないなと思う。届いていたのかもしれないと、対岸を見る。上へ行けば行くほど、溝は開く。
この距離なら届いていたかもしれない。
「学校に行きたくない」と。
そして今、父は、私の書く文章を読み、それを噛み締めているらしい。
その差は何なのだろうか。
あのとき届かなかったのはなぜで、今これほど言葉が届くのはなぜなのだろう。
その答えも、またこの先どこかで見つけることになるのかもしれない。
(つづく)
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