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部屋に溶け込むキッチンタイマー

十年来の付き合いになるYから「キッチンタイマーのレビューをしたらどうか」と言われた。

私は今キッチンタイマーという名前でエッセイを書いている。この名前は中学生のときに使ったハンドルネームが元だ。そろそろ十五年、キッチンタイマーとして活動している。

しかし、キッチンタイマーそのものは使っていない。スマートフォンが手元に来て久しい。

そんな中で、改めてキッチンタイマーの紹介をする。

ということで、今回紹介するキッチンタイマーは株式会社タニタより「でか見えタイマー100分計」である。パッケージの裏側には「大きくて見やすい表示」「冷蔵庫等にはり付けられるマグネット」などの特徴が書かれている。

箱を開けて中身を取り出し、液晶を保護しているフィルムを剥がす。まだ画面には何も表示されていない。絶縁シートを抜いた。

……うんともすんとも言わない。

電池だ。と、思い至った。

タイマーを裏返して電池フタを開ける。すると「ピッ」と音がした。もう電池は入っていて、ただの接触不良だった。

液晶に00:00と表示される。五分測ってみることにした。「分」のボタンを五回押してスタートボタンを押す。

その瞬間、意識からキッチンタイマーが消えた。

代わりに情報がドドドドと音を立てて流れては消えた。「音が鳴るまで何をしよう」とか「キッチンタイマーについて面白おかしく書こうとしてたんだった」とか、さらには、キッチンタイマーについて書こうとしていた自分を更に見つめていた。時間に流れが生まれ、形が与えられた。ただボーッと過ごしていても、五分が経過したら私はキッチンタイマーを止めに行かねばならない。だがそれまではキッチンタイマーのことを考えることもないだろう。

五分間私が何をしていたのかといえば、リビングへ行って、それなのに部屋に置きっぱなしだった本のことが途端に気になって戻った。本を本棚にしまって、目についた脱ぎ散らかしてある洋服を片端から集めて洗濯かごに入れる。また部屋に戻ってきた。タイマーはまだ鳴らない。どうせまた部屋に戻ってくるのに、私はタイマーが鳴るまでの間リビングや寝室をウロウロした。ただただ時間を潰す。これがゆとりかと問われれば少し違う気もする。

ピピピピと音が鳴った。五分だ。ボタンを押して止める。画面には05:00と表示されている。タイマーはまた私に五分間用意してくれている。

この五分の間に、私はすっかり緊張が抜けてしまった。さっきまで、手のひらにずっしりと乗っていたキッチンタイマー、この子について魅力的な文章を書こうとしていた冒頭を見返す。タイマーを掛ける前と後で別人になってしまったかのようだ。

翌日、出勤の前に身支度を整えるとき、再びタイマーを押した。五分、また計る。出発は約十五分後だが、一旦私は五分測った。ボタンを押すとピッと音が鳴る。スタートの合図だ。

さて、何をしようか。カバンは用意できているし、準備することは自分の身なりのほうだ。まずはパジャマの自分を、外向きの自分にする。ズボンを脱いで黒いジーパンを履いた。シワが少し気になったが、履いてみると大したことはないように見える。服を脱いでロングTシャツとカーディガンを羽織る。

妻が部屋にやってきて、黒いコートを着ようとしている私に「今日は暑いんじゃない?」と言ったので薄手の白いコートを着た。

タイマーを見る。まだ二分以上残っていた。

少し急ぎながら歯を磨いて、部屋に戻る。なんとなく手持ち無沙汰な時間を過ごして、タイマーがなるのを待った。

ピピピピ。

タイマーを止める。家を出るまで、まだ時間はある。

再び五分のタイマーをかけた。今度は服を片付ける。床に散らばった服を、シャツ、カーディガン、シャツ、ズボン、靴下、パンツ、シャツと分けていった。シャツが多すぎる。

服を片付け終えて、またタイマーが鳴るのを待った。

朝起きる時間はいつもどおりだ。特段、前日になにか用意したわけではない。画面が大きくて見やすいことを言うべきなのかもしれないが、嘘くさくなってしまいそうだった。

私はセールスマンには向いていないようだ。

このタイマーのいいところは? と、今問われたら、私の部屋に溶け込んでしまうところだ。と、答えるだろう。このタイマーが鳴るまで、私の中には空白の時間が生まれる。五分でも、最初だけ動いてから、だんだん手持ち無沙汰になって早くタイマーが鳴らないか見ていた。

手のひらに乗る大きさながら、私の部屋に流れる時間を支配していたのはこの小さなタイマーだった。

「でか見えタイマー100分計」と書かれた箱は、まだ隣に置かれている。おそらく100分もの時間を計ることは無いだろう。しかし、五分、また五分、次は十分と、時間を伸ばしていった先の100分までこのタイマーは付き合ってくれるらしい。

分を計るのが一桁では九分五十九秒までしか測れないが、二桁表示するのなら、10分00秒でも99分59秒でも大して変わらないのだろうか。

存在も、名前も思い出さなければ忘れてしまう。しかし、この子は優秀だ。音が鳴る。こちらを見てくれと私に呼びかけてくる。木の机の上に、今も05:00と表示された白いキッチンタイマーが置かれている。

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