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学習支援を続けたかった

公倍数の教え方がある。

まず、九九ができるかを尋ねる。少し自信のなさそうな顔をしたら「例えば二の段はどう?」と言うと大抵の子は緊張が解ける。なんなら「できるに決まってるでしょ」と言ったり、そんな顔をする。

「オッケー。では、二の段の答えを五つ並べる。答えだけ教えてくれるかな」

するとすらすら、二、四、六、八、十と出てくる。

「これらは、今日から『二の倍数』と呼ぶ。いいかな? 二の倍数がコレだ……では、レベルアップ、四の倍数を五つ、分かるかな? ヒントを出そう、最初は四、次は八だ。後三つ」

ここで基礎を丁寧にさらう。特に「多分三の段だけど、自信が持てない」というところを、二つヒントを出すことで消す。このあたりで「なんだ、楽勝じゃん」という空気が流れ始める。

そして、二列の数字が並ぶ。二、四、六、八、十。四、八、十二、十六、二十だ。

「さて、ここからだ『公倍数』の『公』なんだが。公園は知ってるかな?」

ここで、空気はちょっと難しそうだと抵抗感が流れる。しかし、公園は流石に知ってるけど、何の話だろうかと、興味は持ってくれている状態だ。

「公園は、みんなで遊ぶ場所だろう。だから公園の『公』は『みんなの』という意味があるんだ。公倍数も同じ『みんなの倍数』」

と言いながら、四を丸で囲って、手をつなぐように線でつなぐ。

「はい、二の倍数と四の倍数、みんなの倍数、公倍数です」

公の意味は厳密には違うがフィーリングで覚えてもらう。ここはとにかく「公倍数」が「みんなの倍数」という九九の延長線上にある何かなのだとイメージしてもらうことが重要である。

前に学んだことの応用をする感覚と、前に習ったことの呼び方が変わる感覚を彼等は同時に体験する。パニックになるのも当然である。なので、躓いている時には、これを繰り返し教える。

公倍数が難しいのは、知っている言葉が無いからだ。しかし、倍数はもう習っているし、公の意味もわかる。その回路を繋いでやれば、少しだけ苦手意識が削れる。

知っていることから、知らないことへ、線を引くように手を取り、共に歩む。それが、私のしてきた仕事である。

学校で学ぶことは、意味分かんないことが多い。先生も理解した上でやっている。しかし、それでも、多くの人に分かるやり方から零れる子がいる。その子に「もう、技術は揃っている」とか「足りてないのはここだから、復習から行こう」とか、そういうことをずっとしてきた。

何ができるか分からない。だから、できることを見つけて問題を解決する。それが基本的には私の仕事である。私の技術で解決するのではなく「あなたのできる範囲」を一つずつ確認していく。しかし、それは自分の身の丈を晒すという結構恥ずかしい行為でもある。だから、その手前に「こいつになら、まぁ、失敗してるところを見せてやってもいいか」と思ってもらう工程が挟まる。

やり方は色々あるが、共通しているのは、私自身の大きさを見せることである。失敗しているところを見せる。うまくいかないところを見せる。そうすると、段々、お互いに失敗するのが当たり前になる。難しいのは、私の方は失敗できないポイントがいくつかあることである。失敗していいところで失敗すること、それが大人側に求められるテクニックだ。

そうして、彼らの知っていることと、まだ知らないことを結びつけていく。あるいは「君はもう知っているんだ」と教える。気づかせるなんていう崇高なものではない。ただ、事実を並べるのだ。

何が足りていて、何が足りていないのか。

私と相対すると、理解していることと、そうでないことにぶつかる。そして、その隣りにいる私が力を借りるだけの信頼に値するか、それが問題であり、仕事なのである。

誰よりも早く、相談される相手になること。それが目標だ。雑な相談のハードルが一番少ない男、それが私でありたい。

よくわかんない言葉の教え方や、無理だとフタをしていることのフタの硬さを確かめる。実際のところ、無理かもしれないという気持ちもある。可能性は無限、なんて言葉もあるが、時に無責任にも感じるものだ。

これらのやり取りは、高校時代に先生からやってもらったことだ。基礎を固めて、知っている知識を引き出して「勉強にも使える」と示す。昔、ただ乗り越えた九九という苦行がここに来て活きる。そのつながりを体感してほしい。

そういうエゴで、支援をしている。

あくまで塾ではない。学習支援だ。福祉としての支援である。

ただ、この支援ができるのも今年度までである。こうした支援は、福祉の担当管轄から外れることとなった。学校や塾でやることだ、という理屈である。

学校にいる、ほんの少しだけ手を貸してやることで自信を取り戻す発達障害グレーゾーンの子どもたちに、私のしてやれる支援がなくなった瞬間でもあった。教科書の科目や学ぶ順番の一覧を開いて、どこからどんなふうに躓いているのかを整理して伝える。一番にならなくていい、真ん中に近くなるように、学校で過ごす時間のうち、分からなくて霧の中に包まれたような不安な時間が少しでも減るように努めてきた。

しかし無念、学習支援はこの度、お役御免となっていくのである。未練タラタラだ。まだやりたいことはいくつもあったが、力及ばず、力足りず、仲間とも力をあわせられなかった。

そんな私が何をしているかと言えば、布団に寝転がっている。完全にお手上げだ。しかも、頑張りすぎてはいけない病にかかってしまったので全力投球できない。

情けないことこの上ない。自分の積み上げてきたものが、全く役に立たなくなってしまう。それどころか、専門外の新しいことをその場その場で身につけていかなくてはならない。しかし私は、全部知りたい。自分のわからないところまで全部を知らないと納得できない。

だが、完全に迷宮入りだ。福祉系の学校に入り直さなくてはいけないかもしれない。ぐってりと体が真横になってしまう。何もねぇ。この四年間、何してきたんだ。そしてこの先、どうしていくか見通しも立たない。その上風邪を引いた。

良いことなしである。人を救えなかった記憶と、化け物みたいな吸収力の何かが背中を這っている。もしも、私がもっと勉強できたら、もう少し長く彼らと一緒にいられたかもしれない。

手放してしまった後で大きさに気がつくが、手放したからこそ、手に収まるものの大きさにも気がつくものである。私は保育士になりたいし、運転免許も取りたいのにそれらをそっちのけにして寝転がっている。

むしろ仕事の方から来てほしい。学習支援ならできるんだ。あるいは、もっと小さなステップを一緒に上がるように、向き合うことなら出来るんだ。それ以外はてんで駄目かもしれないが、それだけはできる。

未練がましくしがみついているのだ。わからないことが分かる感覚。できないことができるようになった感覚に触れる。

そのひとときは、もう、過去のものになった。今度は私が学ぶ番である。

学び方もある。わからない部分を頭の中から引きずり出すやり方があるのだ。それも使わずに寝転がっている。風邪だから。

本当に、サボってばかりだ。

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