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夢にはまだ伸びしろがある

明晰夢を見た。

気がついたら世界中の人の身体と意識がランダムに入れ替わってしまい、自分も意識が別の体に乗り移っている。街は大パニックだが次第に落ち着いていき、見知った顔を見つけては声をかけて「あなたの体を知っている者ですが、どなたですか」と話しかけるような世界になっていた。

……絶対夢じゃんこれ。

夢というのはかなり無理がある設定でも、見ている最中は不思議と実感が湧かないものだ。目が覚めてから「なんであんな出来事が起こると思ったんだろう」と首を傾げることもある。さらにそう思っているうちに、夢の記憶はどんどんなくなっていき、何の夢を見ていたのかも忘れてしまう。数少ない覚えている夢は「電車の車輪がめちゃくちゃ小さくて運行できなくなる」というものだ。気づけ。設計、乗り入れ、運行までいって途中駅で「電車の車輪が小さい!」なんてことあるか。

しかしそのときは本当に困ってしまった。どういった理由であれ電車が動かないというのは困ったもので、予定通りに行かない不安を味わったあと目が覚めてから「……なんで?」と思ってはどんどん記憶が消えていくのである。

しかし今回は違った。浅い眠りを繰り返し、三度寝くらいしても夢の内容が全く変わらなかった。流石に、さっき起きて水飲んで横になったら、意識と身体がランダムワールドに放り込まれたら「夢だな」と思う。

それに、体は自分のものではない。やりたい放題だ。

私は「夢ってどこまでできるのだろう」と疑問に思い、試してみることにした。例えば、壁があるとその先を透視することはできない。あくまで主観的であるが、建物の内装らしいものが作られている。壁に向かってみると硬い感触がした、手でも触れられる。夢の中とはいえど通り抜けはできないようだ。

和風な家なので、頭上に梁がある。手が届きそうな高さだ。私は一回そこを通過した。特に問題ない。今度は、横断歩道を渡る子どものように手を上げて通ろうとしてみた。手に硬いものが当たる感触がした。視界の外でも、物には触れられるらしい。

その梁を折ってみようと力を込めたが折れない。夢の中でも全部が思い通りに行くわけではないらしい。もしくは、私自身が「折れないだろう」と思っていたから、折れなかったのかもしれない。

土産物屋にあった発泡スチロールの人形は容易く割ることができた。店員はギョッとした目で見ていたが、何も言ってこなかった。できると思っていることは現実的であるほどできるらしい。

気がつくと体が宙に浮いている。そういえば、梁を掴んだとき、梁は目の前にあった。あのときから、私は床から浮いていたらしい。どこまで浮けるのだろうか。私は地面からどんどん離れてみた。街が小さくなるが、ある一定の高さからランドマークになる建物が異様な大きさで見える。桃鉄のような世界だ。地球に、大陸や国を覆う位のサイズに建物がデフォルメされて建っている。

再び近づいてみると、今度は街がドット絵で表現されるようになった。マインクラフトやポケモンの記憶が繋がったのだろう。ゲームのようだと思ったら、本当にゲームになってしまった。あと、ある程度以上は近づけなくなり、街のマップを空から見下ろす状態になった。

「もういいか」

そう思い夢から覚めようとしたが、すぐには起きられなかった。ちょっと焦ったが目を開けようと意識してしばらく、夢から覚めた。

布団が捻れて私の横に転がっている。付けていたはずのアイマスクは、布団の下に移動していた。寝ている間に布団を剥がし、アイマスクも外していたらしい。

ねむたい。浅い眠りをちょんちょんと繰り返している。水の中にどっぷり浸かるというよりは、水切りのように、寝ると起きるの狭間を私の意識が跳ねていた。跳ねるな。寝ろ。

しかし本当に夢というのはすぐ忘れてしまう。ただ、あまり文字に残さないほうが良いらしい。夢日記というものを付けていくと、現実と夢の区別がつかなくなるとまことしやかに囁かれている。

ただ、夢のほうは記録に残さずとも現実味のあるシチュエーションを出してきたり、あたかも現実のように振る舞ってきたりと別に頼んでもいないのに介入してくる。夢側も、現実日記のようなものを付けていないと「あぁ、これ夢だ」と区別できなければ不公平である。

明晰夢とまではいかなくとも「これは、現実ではない」とうっすら実感できるほうがいい。というのも、私の夢はどうにも不愉快なものが多い。

電車が遅延するとか、テストを解き終わって余裕でいたら裏面があったとか、レポートの提出課題の要項が間違っていることに提出五分前で気がつくとか、本当にそういう「切迫する恐怖」を与えてくる。現実かどうかは関係ない。すごい緊急事態で、この場をなんとか乗り切らないといけないと焦らせてくるのだ。ほぼ詐欺の手口である。現実的かどうかより「やばい! なんとかしないと!」が、勝つ。

夢の内容をあまり覚えていないうえでなんなのだが、怖い夢はよく見るのにリラクゼーション効果のある夢を全然見ていない気がする。例えば春の木漏れ日、宮殿で聞くハープ、湖に仰向けに浮かんで眺める空。そんな夢が果たしてあっただろうか。

夜、寝ているのだから、夢側ももう少し配慮すべきである。参照する記憶に偏りがある。焦る、怖い、そんなものばかりが記憶に残る。もっと「あぁ、あの夢で見た場所にもう一回行きたいなぁ」と二、三日浸れる夢も提供すべきだ。

下品な話をする。

おしっこをする夢は本当にやめてほしい。何が嫌って、まず幼少期はおしっこをする夢を見ておねしょをしていた。だから、寝起きが最悪だし恥ずかしいし、両親の「恥ずかしくないよ大丈夫」みたいな雰囲気と「布団、洗濯か……」みたいな雰囲気が入り交じる空気は、幼いながらに「……気まずい」と感じていた。少なくとも喜ばれることではないのはわかった。

最後におねしょしたのは中学生くらいの頃だが、この時にはショックもあったし両親には「ごめん、おねしょした」と伝えに行く恥辱があった。この時には「まぁ、珍しい」みたいなリアクションではあったが、恥ずかしかった。それに、小学校になっていよいよおねしょを卒業した頃に、まだおねしょしていた妹を「おねしょマン」とバカにしていた手前、妹に知られるのも恥ずかしかった。

それからも、おしっこをする夢は見た。放尿感がある。しかしその時、「これ、夢じゃないよな!?」と思い、ガバッと起きる。

夢だ!

布団をめくる。

濡れてない。確実に「出した」と思ったのに、膀胱の調子と言えば「そろそろトイレに行きたいなぁ」くらいの感じである。なんとなく悔しい気持ちで布団から出て、トイレに行く。

そして出すとき「……これって、夢じゃないよな」と思う。まだ意識はぼんやりしているし、この浮遊感はさっきまで夢の中で感じていたものに似ている気がする。怯えながらお手洗いを済ませ、水を流してドアノブを握ると徐々に現実感が出てくる。これは現実、現実だ。

そして布団に戻る。夜の四時頃だ。まだ起きるには早い。

現実感を取り戻したのにまた寝ろっていうのも理不尽だ。

再び、意識を手放す。

この経験があるので、ふとした時に「ここ本当に現実のトイレだよな……?」と思いながら用を足す。特に外出先の見覚えがなく妙に綺麗なトイレとか、駅の微妙に汚いトイレでも「……これ、夢の可能性がゼロではないよな」と思いながら静かに用を足している。

で。静かにやるもんだから、勢いが足りないのか、残尿感が残る。ちんちんというのは、尿道に液体が残ると非常に出しづらい。膀胱から勢いよく放たれることを想定しているのか、弱モードで出した場合、ホースの中に残った水みたいなものが若干残る。これが気持ち悪い。

と、同時に「……現実よなぁ」という安心感がある。しかし、この残尿感はそんな安心感をかき消すには充分な不快感がある。振ってみたり、ちょっと待ってみたりと工夫してなんとかしている。

夢のせいで、気持ちよくお手洗いに行けるのは昼ぐらいである。夕方から夜にかけて、さらに出先では「……夢か……?」と身構えてしまう。自宅でも身構えることがあるくらいだ。

夢は特にデティールに拘りのある制作者が担当する日がある。絶対ある。精巧に作られた「かなりリアリティのあるお手洗い」を差し込んでくることがあるのだ。こだわりの逸品である。

やめてほしい。

そんなところで現実に忠実である必要はない。そういうときこそ「あぁ、これは夢だ。さっさと起きて現実のトイレに行こう」と思わせてくれ。そこに没入感はいらない。

おかげで夢日記をつけるまでもなく、現実と夢の境目が分からない状況は発生している。

夢と現実の区別はつけるべきだ。せめて、寝てるときぐらいゆっくりさせるべきだ。朝起きて、最初の感想が「……夢、か」であることが、いい体験だった例がないことは現実でも、漫画でも明らかである。

そのあたりが全く反映されないあたりに、憤りを感じる。

夢にはまだ伸びしろがある。

見る側を楽しませようという気持ち。それを大切にしながら次回作を作ってほしい。だが、もう二十八年もカスみたいな夢を見せられている。

今は椅子に座ってエッセイを書いている。

耳鼻科の順番待ちだ。流石に病院の順番待ちをしている夢はまだ見ていない。

もし夢だったら困る。

せっかく書いた文章が白紙に戻ったときの絶望感は半端ではない。その夢は見たことがある。

でも、念の為足の指先を動かす。人前でほっぺをつねるわけにも行かないので、こっそりとやる。ひょこひょこと足の指が動く感覚と、革靴が細かく揺れる。

うん、現実だ。

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