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正論

最近進撃の巨人にハマっている。
先日のアメトークの放送でフィーチャーされていて、気になって読み始めたのだ。

そして驚くべきことに、進撃の巨人の”正義”や”不条理”、世の”残酷さ”というテーマに魅了されている。

なぜこれが驚くべきかと言えば、それは私がかつて鼻で笑ったものだったから。

私は中学生の時にも進撃の巨人を読んでいる。当時は15巻くらいまで出ていて、友人宅で8巻くらいまで読ませてもらった。
進撃の巨人では世の中の残酷さ、圧倒的な不条理さ、正義とは何かというテーマに対してオブラートに包むことなく、ストレートに表現している。
しかし、それは中学生だった私にとっては非常にダサくて、陳腐なものに感じた。

当時の私が世の不条理や正義に対して疑問を抱かないような、順風満帆な生活をしていたかと言われればそうではない。事実、学校ではいじめを受けていたこともあったし、部活動でもイメージしていた活躍は全くと言っていいいほどできていなかった。
にも関わらず、ストレートに語られる”正義”や”不条理”というテーマは、当時の私にとって、とっつきやすくて実の伴わない”お題目”にしか感じられなかった。
それはきっと、自分の可能性に疑問を持っていなかったからだ。

しかし大学を卒業し、社会人をしているとそんなことはなくなってくる。自分の現在位置から、なんとなく将来の輪郭が図らずもわかってきたり、自分の努力とは関係のない世界でいろいろな差があることを身を以て体感してきた。
だからこそ、進撃の巨人で語られるような”正義”や”不条理”について、フィクションとは思えず、どこかで自分を投影してしまう。

しかし、その投影に陶酔してしまってはならない。
確かに、世の中の不条理さ、不平等さを自分は知っているのかもしれないが、その反例も同時に目の前にしているのではないか。

つまり、不条理さを受け入れ煩悶する登場人物を描く、作者自身も不条理を経験しているに違いないけれども、それを受け入れなお足掻いたからこそ、自分の手元にこの漫画があるのではないかと思うのだ。

なのでむしろ、漫画を読む姿勢としては、作者に怒りを感じるくらいのスタンスで読むのがいいのかもしれない。
なぜなら、世の不条理を謳う作者は、それを発信しながらもそれを乗り越えたところにいるからだ。

”正論”という事実を受け入れながらも、それに共感することなく、立ち向かい続けていく姿勢を持たなければ何も生まれない。