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「南風吹く頃に」

第一部 16 ・継ぐ(つなぐ)

高体連札幌地区予選の3日目は3時25分から16継の予選が行われる。山野先輩の200m予選は11時20分からだ。16継のエース、2年生の隠岐川さんは800mにも出場するので準決勝が9時15分、決勝は1時50分からとハードな日程になっている。

僕と山野紗希は16継までの間、他の人たちのコールや荷物持ちとして走り回った。そのほか出場種目のない1年生も同じように競技場とサブグラウンドを行ったり来たりの1日となった。リレーの時だけに限らず、陸上競技もこうやって団体戦的な部分があるのだ。野球部で試合に出られない下級生たちがバットボーイやボールボーイをしたり、グラブ渡しをしたりするのと似ていた。

 隠岐川さんは800m予選を2分2秒58で余裕を持って1位通過した。山野さんの200mは1着取りという厳しいプログラム編成になっていた。22秒88で走った山野さんは2着だったが、タイムでプラス6に入り明日の準決勝に進んだ。山口美優さんと1緒にゴール前でタイムを取っていた山野沙希が、珍しく大きな声で声援を送るのを聞いた。
 800m決勝の隠岐川さんは1週目の400を60秒台、2週目を58秒台で走りぬき1分59秒89で3着に入った。1500mを兼ねている選手が多い中、隠岐川さんは短距離選手の走りをしていた。膝下の振り出しと蹴ったあとの後ろ足の畳み方がスムーズで力強い。1位と2位の選手は2人とも1500mで中川健太郎に先着した3年生だった。短距離型の隠岐川さんは最後の10mでかわされてしまった。

朝から山野紗希と一緒に行動していると、彼女が放つ負けず嫌いの熱気に感染してしまいそうだった。僕と話をしていても、目はしっかりとレースを追って離れることはない。そしてどのレースに対しても自分が勝負しているような目をしている。陸上に対する真剣さが本物であること以上に、勝つことへの強いこだわりを感じさせる顔だ。
彼女は今までずっとこうやって勝負してきたのかもしれない。それは自分以外の周りのことをまず考える山口美優さんや川相智子との決定的な違いだった。彼女はこうやってなにに対しても勝負して生きていくのだろう。そして、だからこそ彼女は強くなっていくだろうし、負けないために人1倍努力していくのだろう。彼女には「誰にも負けない」という絶対的な目標が何に対しても、そして、どんなときにでもあるに違いない。

僕自身はどうなのか。負けたくないのは同じでも、今まで負けをたくさん経験してきたことで、負けることに慣れてしまった自分がいることも知っている。負けたところで自分が自分でなくなるわけでも、それが人生の全てでもない。負けたほうが楽になることだってある。けれども負けたくはない。勝負になれば勝ちたい。それは確かに自分にもある。でも、それが絶対的な目標になっているわけではない。むしろ、それ以上に夢中になって試合に打ち込みたい。勝負に熱中したい。そんな楽しい時間を過ごしたい。その部分では中川健太郎と同じなのかもしれない。

「野田君、憲輔はあてにならないから野田君と隠岐川さんで引っ張って!私は絶対、北田さんたちと全道行くから!」
「うん。あのー、山野さんといるとこっちまで熱くなってしまう。憲輔さんはさ、あんまりそう感じさせないのにね」
「だから憲輔はダメなの。やり始めたら最後までやり尽くさなきゃ。だって、人に負けるのって悔しくない!?」
「負けてばかりだったから。負けるのもひとつの勉強かなって」
「そういうのって、なんか、負けた言い訳にしか聞こえないじゃない。負けたら悔しいって言ったほうが正直だと思うけど。悔しい思いをしたくないから、その前に努力するんじゃない? 準備するんじゃない?」
「うん。……そうだと思うけど、いつも勝つわけじゃないし、どっちかは、誰かは、負ける」
「自分が負ける方にはなりたくない。みんなそう思ってるから、勉強したり練習したりするんでしょ?」

「あのー、野球やってたときさ、けっこう強いチームだったんだけど全部は勝てない。力の差がかなりあっても、10回やると1回は負ける。やっぱ、全部勝つことはできないと思うよ」
「私が言ってるのは、勝つために努力するってこと。だから勝ったときは満足するし、安心するし、興奮するんじゃない?」
「うん、そりゃあ勝負になれば勝ちたいと思うし、前にいるやつは抜きたいと思うよ。けどさー、野球やってた時も今も、力いっぱい夢中になって走ったり、投げたり跳んだり、そういう時間を過ごしてることが楽しいし、1番満足できる。だから、こういう時間がなくなったら、どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまう」
「負けても?」
そんなこと理解できない、という表情だ。
「負けたらもちろん悔しいよ。でも、自分が夢中になって走ってる瞬間、スタートしようと集中してる瞬間、前にいるランナーを追いかけてる時、それぞれの瞬間はもう、すごく楽しくて、充実していて、負けたくはないけど、負けても、なんか……面白かったとか、気持ちよかったとか、そんな気持ちになることはあるよ。」

上手く言葉が出てこなくて、自分の言いたいことの半分も言えない自分が情けなかった。
「なんか変! 負けても満足できるなんて。悔しいのに満足なんてないでしょ? そんなの同じ瞬間に感じることじゃないでしょう? 二律背反って言うの? なんか変じゃないそれ?」

山野沙希の言いたいこともよくわかる。
「僕は今まで、というか去年まで野球の試合、年間40試合はやってたから、小学校から数えると、200試合くらいもやった。勝ち負けの数だと120勝80敗くらい。だから80回くらいは悔しい思いをしてる。でもその負けた試合でもいろんなこと考える。負けたけど、結構満足した試合だって間違いなくあった。」
「それは、野球っていうチームスポーツで個人の努力や個人の努力以外の要素があるから?」
「いや、僕は野球より早くから剣道をやっていて、毎日毎日一対一の勝負をしてた。最初のうちは全く勝てなくってさ、それこそ泣きながら相手に向かって行った。でもそのうちに少し上手になって何とか勝負できる形になってからも負けてばっかりだった。そう、負けてばっかりなんだけどさ、なんかね、剣道の試合の形が作れるようになったことが嬉しくてさ、毎日の練習でも、試合の時でも勝ち負けにかかわらずに満足してた日が多かったよ」
「負けても、満足するって、なんか変! 自分が負けたことに意味を付けようとしてる。頑張った自分を自分で褒めようとしている。私そういうの違うと思う。負けたのには意味があるけど、それは負けたことの理由。負けたのに満足なんて私は信じられない」

「負けたことないんだ?」
「去年全中で負けた。入賞もできなかった」
「で?」
「なにが?」
「満足できなかった? 楽しくなかった?」
「悔しくてしょうがなかった! だから、夢中で練習してる!」
「僕が言ったのと同じことだと思うけど」
「そんなことないよ! 満足してないし、楽しくもなかった!」
「レベルが違うってことか?」
「そうじゃなくて……」
「そう……としか聞こえなかった……」

「感覚で生きてる、よね!」
「……」
「どうして、学生服着てるの?」
「うん? 前に言ったと思うけど。着るものないから」
「うそでしょ? そんなはずない?」
「……」
「私、野田君の服……、買ってあげたら、それ、着てこれる?」
「えっ?!」
「学生服じゃないのがあったら、学校に着て来る?」
「なんで……」
「学生服、着なくなったら負けた気にならない?」
「……」
「うそだよ! うそ! もうリレーの準備にいこう!」
そう言った山野紗希の顔は笑っていなかった。

 サブトラックで充分時間をかけてアップした後、競技場に向かった。16継ではバトン練習はしなかった。今日は1度も全力で走っていないので身体は重かった。
「落とさなければいいぞ」
山野さんの言葉は僕をからかっているのだのだと思っていたら、3走からのバトンパスはオープンレーンのため競ってやって来た時には、入り乱れてバトンの奪い合いのようにもなる。混戦になったら落としてしまうことも本当にありそうな様子だった。

最終の6組に入っていたので、それ以前の組のレースを見ることで雰囲気を学ぶことができた。3分34秒台で走れば準決に進む3着には入れそうだった。
 
1走の工藤純輝さんが戻ってきた。2走へはセパレートのままなのでアウトレーンの選手が大きくリードして見えていたが、バトンが渡る時点ではほとんど差がなかった。バトンを受けた山野さんがぶっ飛んでいった。第2コーナーの出口からオープンになり、6レーンの山野さんは急角度でインに入っていく。明らかにオーバーペースに見えた。
昨日、妹に強く言われたのを意識したに違いない。バックストレートをトップで走っている山野さんの走りは力強かったが、いつもの走りではない。肩に力が入りすぎていた。そして、その余計な力が足の動きを鈍くさせ始めた。見ている者の予想通り、山野憲輔は第3コーナーから第4コーナーへの頂点でエネルギーが尽きてしまった。直線に入った時に次々と後続に抜かれ始めた。肩が揺れ歯を食いしばっている。リラックスすることの有効性を強調していた彼が、いつもの走りとは真逆のことをやっていた。

「気持ちが空回りしている」っていうやつがはっきり分かった。腰が落ち、膝が前に出てこない。山野さんの気持ちはよく分かった。自分の思いを……妹に見せたかったのだ。

バトンゾーンの1番後ろまで下がり、両手を振って山野さんを呼んだ。最後の50m。山野さんが歯を食いしばっているのが見えた。ゆがん顔が見えた。いつでもスマートに振舞っている山野さんが、今は必死にもがいていた。
「妹に負けられない!」
ひしゃげた唇から、そんな声が聞こえてくるような気がした。
僕は両手を大きく広げて勢い良く頭上で振った。
「山野さーん! こっちー!」
目があった。顔に再び勢いが生まれた。
「たのむ!!」
いっぱいに差し出された右手には、緑のバトンが持ち手の部分を広くとって掲げられていた。両手で大事に受け取った。山野さんの気持ちを受け取ったつもりだった。妹に見せたい意地を受け取ったつもりだった。力をセーブなんかしてられない。最初からいこう。
「よし!!」

誰に向かって言ったのか。自分でも分からないまま、右手にしっかりとバトンを握りしめ、全力で腕を振った。コーナーの頂点から、先頭の北龍高校が直線に出るところが見えた。すぐ後ろに2校が続き、目の前には澄川高校の選手がいた。後ろに長く伸びたハチマキが手に届きそうだ。
「お前の握力でハチマキ取ってやれ!」
大迫さんの言葉が、はちまきの先端にぶら下がって揺れていた。
「いっちゃえ!」
少し外側にふくらんで澄川の選手をかわした。コーナーの出口で山野さんの走りが思い出された。自分も今、同じことをやっているのかもしれない。でも、今行かないと最後には出せなくなる。行こう!

無駄な力は入れないで……。
山野さんのゆがんだ顔が浮かんだ。
「負けるのって悔しくない!!」
山野紗希の言葉が耳の奥に残っていた。
「今が楽しい! それだけでいい! 行こう!」

直線に出ると風が気持ちよかった。視線が真っ直ぐになると先頭の北龍高校が後ろの2校にかわされそうになってあえいでいるのが見えた。
「いける!」
やれそうな気がした。10mもないくらいのところに3校が固まっている。
「抜いてやる! 負けない!」
山野紗希の言葉は頭の中を猛スピードで駆け回っていた。彼女は女子のスタートを待ってゴール付近にいるはずだ。ちゃんと兄の走りを見ただろうか。そして、僕の走りをどう思っているだろう。

第4コーナーを回って直線に入ると、先頭になった星陵高校が手の届くところにいた。今、北龍高校を交わした。あと50m。隠岐川さんが両手を大きく振って何かを叫んでいるのが見えた。あそこに、自分を待ってくれている人がいる。今までほとんど話したこともない隠岐川さんが僕に向かって何か叫んでいる。スタンドからもゴール付近からもいろんな声が飛んできているに違いない。
「このままいつまでも走っていたい! このまま、この瞬間がずっと続いてくれればいい。呼吸の苦しさなんかどうってことない。足の痛さも、ケツワレの苦しみも、どうにでもなれ!」
隠岐川さんの手がそこにあった。
「たのみます!」
「おっしゃあー!」
軽快な声を残して隠岐川さんがすっ飛んでいく。

 柔らかな腕振りと上下動の少ない走りでなめらかに加速を続けている。隠岐川さんの走りはスムーズで歯切れが良かった。バックストレートを加速していく姿が美しい。
「おー!」
「すげえ!」
「きれいな走り! どこの高校? 誰?」
スタンドのあちこちから声が上がった。

第3コーナーでトップに立つとそのまま差を広げていく。最後の直線になっても柔らかな腕振りを変えずに走り続け1着でゴールを駆け抜けた。3分31秒22。全体では6番目の記録だった。誰もの予想を覆す結果だったようだ。沼田先生が1番驚いたようで、山口美優さんにたしなめられていた。山野紗希は無言で僕たちを見つめていた。その姿に強い決意を見た気がした。僕のケツワレはどこかに行ってしまっていた。

 女子の16継が始まった。南が丘は1組目だ。山野紗希や北田さんたちに僕たちの走りが力を与えられただろうか。
「紗希! 頑張れよ!」
兄である憲輔さんの言葉に小さく頷いて、山野紗希は唇を強く結んでレーンへと向かった。

1走の中島瑠璃は、冷静に初めての400mを走りきった。ラスト50mでペースを上げて、2走につないだ時には、トップからわずかな差の3番目にあがっていた。2走の800mを専門としている3年生の片山清香さんは、最後まで粘りきって3位をキープして北田さんにバトンを渡した。
山口さんの分析通り力の差はなく、3位から6位までが密集になったままコーナーを回っていった。小柄な北田さんには400mの走りはきつそうだったが、高校生活最後のレースだという意識が、アンカーの山野沙紀にバトンをつなぐまで力を持たせてくれた。
「おねがい!」
最後の力を振り絞ったような言葉でバトンを渡しきると、北田さんはフィールドの中に倒れ込んでしまった。順位は5番手に下がっていた。

 ゴール前に集まっていた南が丘の選手たちから落胆の声が出始めた。準決勝に進むためには3着まで入らなければならない。100mを12秒台で走る山野沙紀でも、400mは初めてのレースなのだ。
「やっぱきついかなー」
坪内さんが、ため息と共に小さく漏らした言葉に、川相智子が反応した。
「大丈夫ですよ! 紗希はスーパーウーマンだから!」
「あいつ、絶対に抜いてくるよ!」
山野さんが続いた。
「飛ばしすぎじゃない? 後半持たないよ、あれじゃ!」
後ろの方から誰かが言った声に、大迫さんの驚いた声が重なった。
「憲輔、お前と同じことやってるぞ! でも、このまま行くぞ、きっと! 」
「オレとは、このあとが違う。最後まで行くよ、あいつなら!」

「いやー、とばしすぎですよー」
という、誰かの心配する言葉に
「大丈夫! 山野紗希は根性の女ですよ!」
思わず僕がそう言ってしまった。
「お前といっしょじゃん!」
隠岐川さんが横からつぶやいた。

山野紗希は本物の根性の女だった。200mを28秒で通過した。先頭の札幌第四との差がずんずん詰まっている。それでも、コーナーを回ってからは流石に苦しそうな表情を見せた。少し腰が落ちてきた。珍しく顔が揺れだした。兄と同じ表情をしている。肩がぶれる。後ろに蹴りだすばかりで、腿が上がらなくなった。すぐ目の前にいる札幌第四の選手もかなり苦しそうにもがいている。あと30m。ほとんど並んだ。
「サキー!!ガンバレー!!」
「もう少しだ! 山野!」
ゴール前に集まった南が丘の全員が叫んだ。

ゴール手前わずかのところでバランスを崩し、山野紗希はゴールと同時に前のめりに走路に転がった。限界以上のことをやってしまったように見えた。何でも完璧ににこなしてしまう彼女らしくない姿だった。ついさっき見た兄の憲輔さんと同じだった。山野紗季は最後まで自分の力を出し尽くした。そして、ついに2位まで順位を上げ準決勝進出を決めた。フィールドの芝までやっと歩いてきた彼女を北田さんが泣きながら抱え込んだ。僕たちの声もみんなかすれていた。

隣にいたはずの川相智子がトラックに降りていた。
隠岐川さんが僕の顔を見た。
「あいつ本当に根性の女だな。お前以上かも。」
興奮を隠すかのように、隠岐川さんの尖った顎が少し上を向いた。

「感覚で生きている」
そう言ったのは山野紗希と憲輔兄弟のはずなのに、あの二人が1番感情で生きていた。そして、そういう兄妹であることがうらやましかった。試合前に山野紗希が僕に言ったことは、そのまま全て兄への思いだったのかもしれない。山野さんが病院を妹に譲って自分は大学病院を考えていると言っていたのも、自分への自信のなさと妹への劣等感から来るのかもしれない。そして、妹の山野紗希はそんな兄に対して物足りなさと共に自分以上の力を発揮しようとする気持ちの強さを望んでいたのだ。

南が丘高校陸上部は、今日の1600mリレー2本によって、みんなで強いまとまりを感じあった。仲間のそれぞれが全力で相手に伝える自分の思いがあった。応援する側にもそれをかなえてあげたいという思いがあった。たった1本のバトンに込めた思いは1人の思いから26人の思いにふくらんだ。そしてリレーを走った4人の喜びも26人の喜びへとつながっていった。

リレーというのはただ単にバトンをつないでいくだけではない。一人一人が抱えている思いを伝えることもできるのだ。それは、リレーを走る4人だけのものではない。26人の陸上部員全てにつなげるバトンだった。そして自分たちにかかわる人たち全てに向けて差し出すバトンだった。

陸上競技も確かに団体競技なのだ。

高体連札幌地区予選第4日目。16継は男女とも準決勝を突破した。昨日の予選が南が丘高校の生徒達に大きな力を与えてくれた。男子も女子も自分の力を次の選手につなぐことに全力を尽くし、それが本当の自分の力を、いや、もしかしたらそれ以上の力を発揮させてくれた。そして、その力はバトンと共に次の選手にもつながり、個人では達成できない記録へと結び付けていた。

女子の1走、中島瑠璃は、昨日の走りから自分の限界がもっと先にあることを知った。スタートからリズミカルに走りきった。自信を持った走りに感じられた。60秒を切る記録と共にトップで2走につないだ。片山清香さんもトップで第2コーナーを回り、しっかりとインをキープしたまま北田さんにつないでみせた。昨日の失敗からしっかり立ち直っている北田さんは、自分の力のなさを相手の後ろに付いていく作戦でカバーして走った。
スリップストリームで力を温存している自転車選手のように、ラストの直線でトップの3人集団にしっかり食い込んでやって来た。山野紗希も北田さんと同じ作戦で、ラストを力強く走りきり2位でゴールへ飛びこんできた。全道大会の出場が決まった。昨日よりもしっかり落ち着いて、自信をもって走りきった4人のメンバーには、決勝進出があたりまえだったような表情があった。

男子のリレーは、女子の直後にスタートし、昨日とは逆に女子のリレーにエネルギーをもらったように、伸び伸びとした走りで4人がそれぞれの力を出し切ってバトンをつないだ。
1走の工藤純輝さんが素晴らしい走りを見せた。
「誰よ、あれ!」
自分の仕事を終わらせて、スタンドにやってきていた沼田先生から驚きの声が出るほどの走りだった。成功経験が自信を生み、自分の最高の力を出せる状態になったのだ。人間は気持に左右される動物であることを証明しているかのようだった。バトンが渡りきるまでのタイムが51秒5という、自己記録より2秒以上も速いタイムをたたき出したのだ。

山野憲輔さんはリードを守りきり、僅差ながらトップで僕のところまでやって来た。1メートルほどの間に3校がつながった状態でバトンを受けた。力む必要はなかった。後ろに隠岐川さんが控えている。このままの状態をキープできれば決勝進出は間違いない。今日は誰もが次につなげば何とかなるという仲間への信頼感を持って走っていた。

気持ちの余裕は手足の動きにつながり、無駄な力の抜けた走りは更にスピードに結びつく。200m過ぎまでかなり力を温存していたにもかかわらず、前にいた2校に楽について行けた。
「これは行ける!」
400mは3回目でしかないが、心の余裕が強気を呼び起こしていた。

第4コーナーを抜けた時、前の2人が荒い息をしているのがわかった。
「ここだ!」
小指に力を込めた。
スパートをかける。
一気に抜き去った。
まだ辛くはない。
「もっと行ける!」
全力で腕を振った。
膝の上がりも変わらない。
隠岐川さんの右手が左右に振れていた。
顔が見えた。
大きく叫んでいる。

スピードがほとんど落ちないままアンカーの隠岐川さんにバトンをつないだ。フィールドに入った時に後ろから来ていた2校が競ってバトンをつないだ。隠岐川さんはコーナーの頂点にさしかかっていた。
笑顔を隠すことなく、隠岐川さんはゴールまでやって来た。柔らかで滑らかな走りがスタンドにいるみんなの目に焼き付けられた。
「すげえ!」
「きれい!」
準決勝で1着になったのは初めてだと沼田先生が興奮していた。3分29秒01という記録は決勝に進む8チーム中3番目の記録だった。

 16継の決勝は全種目の最後に行われ、この大会のフィナーレを飾るような雰囲気を持っていた。今までの南が丘は、男女ともにこのレースを他人事として眺めてきた。今、男女ともに堂々と決勝レースの場に立っていることに大きな喜びを感じ、それ以上に浮き立って舞い上がった気持ちにもなっていた。実力以上の記録を出したことに気づかずに浮かれていると、どこかに負担がかかりすぎ大怪我に結びついてしまう。

2年前、中学の野球部でエースの3年生が爪を割ってしまった。春になってから覚えて好結果を出し始めていたカーブの投げ過ぎだった。中体連を間近にした怪我は命取りだった。3年間の集大成となるはずの試合に出られなくなったエースの人生は大きく変わってしまい、卒業するまで担任の先生に迷惑をかけどおしの厄介者になってしまった。

「ねえ!」
サブトラックのテント前でみんなに呼びかけたのは北田さんだった。
「なんか、欲張りすぎてない?」
「何のことっすか?」
坪内航平がすぐさま反応した。
「昨日までさ、全道、全道って、必死になってたよね! どっちかって言うと無理だって思ってたでしょう?」
「そうすよね! 確か北田さんは『絶対無理!』って思ってたみたいでしたよ」
「そう、私は本当に絶対無理だって思ってた。でも、みんながやる気を出して盛り上げてくれたから、本当に自分の力以上のものを出せたと思ってる。……だから、もう満足。最後の最後に本当に最初で最後の全道大会に行けるんだから。もうこれ以上は望まなくっても……」

「いや、北田さん、これからですよ。これからまた新しい試合に出れるんだし、全道大会までまだ時間あるし、もっと記録伸ばせますよ」
中島瑠璃が勢いよくそれに反応した。
「そうだよね。瑠璃ちゃんなんかはさ、1年生なんだからまだまだ伸びるし、この結果は本当に実力だと思う。」
二走で頑張った三年生の片山清香さんが言った。
「うん、キーちゃんの言うこともその通りだと思うよ。私たちなんかね、本当に全道大会なんか考えられなかったんだからね。だから、本当に満足。1年生二人のおかげだと思ってるよ。だから、旭川に行ける……、もう一試合できる喜びでね……」

片山清香さんの声が少し涙声になりかけたころ、山口さんが弾んだような小走りでやってきた。
「さあ、みんないよいよ最後のレースだよ。もうここまで応援できるの初めてだし、なんかもううれしすぎる。もう順位とか何とかより楽しんできてね!今年の札幌支部予選最後のレースだよ!めいっぱい応援するからね!!」
山口さんらしくないはしゃぎすぎた言葉ばかりだった。自分が選手として参加してきたわけじゃないのに選手たち以上に感慨深いものがあるようだった。

16継決勝は女子が7着、男子が4着という結果だった。リレーの強豪校では決勝にフルメンバーで臨んできたところもあった。伝統校にとっては決勝に進出するくらいは当たり前のことで、何人もの候補の中から選ばれた選手が予選、準決と決勝とを分けてメンバーを組めるチームもあるのだ。南ヶ丘は大健闘だったのだがやはりまだまだトップチームと互角に戦えるというほどではなかった。いや、それでも、ここまで進出してきたことに価値があると26人の陸上部員たちは大きな満足感を味わって終えることができた。

役員の仕事を終えた上野先生と沼田先生「夫妻」がテントの立ち並ぶ間を縫うようにやって来た。
「いやー、皆さんご苦労様でしたねー」
といつも以上に明るく弾んだ声は上野先生だ。
「南ヶ丘は、大健闘でしたねー。もうねー、役員の先生たちの間でも大評判だったよ。『沼田さん今年すごいじゃないの!』ってさ。もう嬉しくなっちゃうよね! 自分のことじゃないのにねー!」
上野先生は本当にうれしそうだった。半分は上野先生のおかげでもあると、僕たちはみんな思っていた。

「いや、本当によく頑張ったな……」
珍しく素直にほめてくれた沼田先生の顔も頬のあたりが緩んでいたようだが、サングラス越しで表情はわかりづらかった。
「……ということで、君たちの今回の頑張りに対して、ご褒美をあげることにしました。明日から三日間練習は休みにするから、十分休むなり、遊ぶなり好きに使っていいぞ!」
「えー、なんすかそれ! ご褒美って、先生そんなのいつものことじゃないすかー」
坪内さんの速攻に沼田先生もしっかり反撃した。
「そっかー、残念だな。じゃあ坪内だけは明日もまた自主練習ということで! 明日は野球部もサッカー部も練習しないからな、グラウンド全面使っていいぞ」
「いや、それはー……ご遠慮申し上げて……」
周りのメンバーたちからは拍手が送られ、坪内さんは拍手し始めた一年生に向けて顔をしかめて見せていた。

 上野先生は清嶺高校の生徒たちに囲まれて笑顔いっぱいに話していた。大きな歓声が何度も起こり、盛大な拍手と「ハイ!」という全員の返事がサブトラックの周囲を何周もしていた。

 暗くなり始めた競技場からバス停へと向かい始めたとき、僕の携帯が振動した。高校入学後スマホデビューはしたもののほとんど使うことなく、時計と地図くらいしか利用してなかったので、着信の振動に少し驚いてしまった。

 岩内にいる継母からのメールだった。午前中には電話の着信もあったらしい。メールも二度にわたって送られていた。継母からの連絡は初めてではなかった。札幌で生活を始めたその日に何もしてやれなかったことを詫びる電話を受けていた。僕は継母が嫌いではなかったし、普通に話すこともできていた。ただ、やはり「母」として接することはできなかった。「どんなことでもね、いざとなれば何とかなるもんだよ。やってみればいいっしょ!」
というのが口癖の彼女は、父とは違って気持ちの豪胆なところがあった。それは、香具師として全国各地を周って歩いたという彼女の父親の血をひいたからかも知れない。

 メールには写真が添付されていた。ベットから身を起してこちらを見ている祖父とその背中を手で支えているような祖母。そして、小学校に入学したての弟と4歳の妹。みんなこちらを見てほほ笑んでいた。札幌に来てまだ2か月ほどなのに、この写真の現実はずいぶん昔にあったことのようで……僕の頭の中にいつまでも入り込めずにいた。

 “……、おじいちゃんが、あんまり良くないみたいです……”

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