見出し画像

「南風の頃に」第二部 6 高松 恵


「おれさ、新聞部に入ることにした。」
ついこの間テニスの全市大会で活躍できなかった話を教室中にバラまいていた武部がそう話し始めた。
昼休みの教室は慌ただしく人が動き周り、昼食を長い時間かけて食べている女の子達が車座になっておしゃべりに夢中になっている。弁当を食べているのかしゃべっているのかわからないくらいに盛り上がっているいつものメンバーだ。僕の弁当は3時間目が終わる頃にはなくなっていて、さっき武部と一緒に購買で買ったコロッケパンを食べ尽くしたところだ。牛乳の白さをまだ口の周りに残した武部の口の動きはいつもより更に激しかった。

「新聞部? なんだそれ?」
毎日と思えるほどの武部の宣言にまた驚かされている自分が、なんだか1週遅れのランナーのように思えた。こいつはきっと普通の人間より生活のテンポがずっと速いのだ。僕らの1秒という単位を武部は1時間なり1日なりという単位で生活しているに違いない。
「まだ、2ヶ月しかたってねえべや!」
「やっぱ、オレは運動する側じゃないってわかったから。」

部活をやめるってことはそんなに簡単なことじゃないと思っている僕と、武部の軽さとはうんと距離があるようで、どうしてもそれはわかり合えることではないようだ。

「オレさ、気がついたんだ。自分がテニスしてても、気になるのは誰かのかっこいい姿でさ、なんかそういうの見てるとそいつのこと無性に知りたくなってしまうんだな。自分がかっこよくなりたいって、おまえらは思うんだろ。けどオレはちょっと違う。」
武部の言うことはよくわからなかった。それでも、こいつに運動は似合わないだろうことは前からわかっていた。

「で、新聞部にはなんていうかわいい子がいるの? テニス部の青木さんはどうしたのさ?」
「いやいや、そりゃー『南ヶ丘コレクション』も大事だけどさ、オレだってさそれだけが目的じゃないんだってば!」
「へー、そうー?」

武部の顔の赤さが増した。そして、いつも以上に力を込めてしゃべり出した。
「新聞部に行きたいってのはさ、半分は写真撮りたいってことでさ、オレ写真好きなんだよね。前から」
確かに、こいつはいつでもカメラを持っている。テニス部の写真も合唱部の写真も、たくさん見せられた。丹野邸にやって来るときだってカメラを首から提げていることが多かったし、僕がまだ寝ている間に丹野のばあさん相手に何枚もの写真を撮っていたことだってあった。そのうちに駅の階段下からカメラを構えちゃうヤバイやつになっちゃうんじゃないかって、僕は思ったくらいだ。

「新聞部っていうかさ、カメラを持っていると毎日発見があるんだ。普通だったらさ、なんにも気にすることなく通り過ぎてしまうここの道だって、カメラ片手に歩いている時にはさ、道端にたくさんの被写体があることに気づいてしまう。カメラは、毎日見飽きるほどに何気なく生きている一瞬一瞬を切り取ってさ、永遠の姿として残しておけるだろ。何よりも、自分の生きている時間を何気なく無為に終わらせることがなくなるような気がする……」
こうなると武部の話は止まらなくなる。

「……カメラに収めた瞬間瞬間は、永遠の命を与えられて変わることなく存在し続けるんだ。もし、自分の選んだものがほんの少し違っていたら、それ自体がその違ったものとして永遠に存在し続けることになる。一秒前の一瞬と一秒あとの一瞬とでは大きな違いを持っているはずで、それを決めるのは自分の目。そして、自分の目で選んだものの命を永遠にとどめてしまう。そんなふうに考えると、カメラを手にした自分が万物の創造主にでもなった気分になれるんだ。いやこれは俺が勝手に思っていることだけどね……」
やっぱり、また長い話だ。
「……写真ってさ、時間を記録してんじゃないかと思うのさ。いや、確かに対象になるものを写してんだけどさ、その瞬間の、そう、その瞬間の世界がさ、写真の中に閉じ込められてる気、しない?」
「……」
何を言いたいのか想像できなかった。

「だって時間って、人生そのものでしょう! オレたちは今まで約5000日くらい生きてきたことになるんだ。16年でさ。時間にすると14万百6十時間。8百4十2万7千6百分。5億5百6十5万6千秒。そんだけの時間生きてきたことになる。」
「おまえそんなこと計算してたの? 頭ヘンにならないそんなの計算してたら。」
「まあ聞けって。今オレとおまえがこうしてしゃべってる時間はもう2度と戻ってこないだろ……」
「詩人になりたいのか? そんなこと言い古されたことじゃんか」
「いや、そうじゃなくて、自分の長い人生の中でもさ、今って言えるのは、ずーっと続いているだろってこと。今は、いつでも今なんだよ。今って言ってるこの瞬間は次々に過去になっちゃうだろ。今って、こっちに向かってやって来る新しい瞬間で、それは予想できないけど、今が過去になる瞬間は記録に残すことができるんだ。それが写真の役割だし、……写真の奇跡なんだよ。わかるだろ?」

全くわからなかった。それでも、武部が何か大切なことに気づいたのだろうことはわかった。武部は僕と違って成績が優秀だ。2つ上の姉も超がつくくらいに優秀ならしい。だから、武部はそのうち僕とは違った世界で生きていくだろうと思っている。今、武部が言ったことが僕の頭には浸透してこないのだ。テニス部にいる武部より、新聞部や写真を撮っている武部の方がはるかに似合っているような気がしていた。
「……と言うことで、おまえの写真をいっぱい撮っておくからそのつもりでな」
まだ夏休みも迎えていないけれど、これが彼の何十回目かの宣言になった。

「でさ、隣のクラスにいる松山恵って、おまえ知ってる子か?」
話があっという間に変わってしまった。これもいつもの武部だ。
「知ってるわけねえだろ。札幌来たの初めてなんだから。」
「おまえの中学時代知ってるって言ってたぞ。」
「中学は岩内だって。知るわけねえって。」

全道大会後にマネージャーの山口美優さんが引退をすることになった。もちろん3年生の先輩達もだ。夏休みを境にみんな本格的に受験勉強に打ち込む時期になったのだ。南が丘の生徒達は部活をやりながらも勉強はしっかりやっている生徒達ばかりだから、勉強することが特別なことではないのだが、やはり3年生は部活に区切りをつけて大学受験に邁進する。ここの学校は進学率ほぼ百パーセントで国立大学や医学部へと進学することが多いのだから、その勉強への意識も他の学校とは全然違っていた。

 山口さんは中学までアメリカやカナダで暮らしていた。いわゆる帰国子女で、父親はまた去年からアメリカ勤務になったので、大学はアメリカに戻るのだという。9月に新学期が始まるのに合わせて夏休みの終わりを待たずに渡米すると聞いた。

全道大会後、久しぶりに放課後の部活動が賑やかになったのは、山口さんをはじめ山野憲輔さんら引退する3年生が全員集まった「引退式」があったからだ。
そして、その中に松山恵がいた。武部がこの間話していた子だ。1年生の途中から入部するらしい。入部と言っても部員じゃなくてマネージャーとして入部するのだという。つまり、山口さんの後釜と言うことになる。彼女は無口だった。無口と言うよりは必要なこと以外は口を開かないというか、後から入部したためにまだ仲間に慣れていないことを差し引いても、元々言葉が少ない性格のようだった。

その日から2週間たって夏休みが近づいた頃、彼女の話を始めて聞くことになった。
「高梨君知ってますよね」

清嶺高校での土曜の合同練習の日だった。午前中の練習も終わり、隣にある公園に行ってみんなで弁当を広げた。合同練習にはたまにはこんな楽しみもあった。
土曜日にもかかわらず丹野のばあさんは相変わらず手の込んだ上品な弁当を持たせてくれた。苫小牧に住む息子夫婦に登別温泉に連れて行ってもらうということで明日の夜までは帰ってこないから留守番を頼むと何度も何度も繰り返し頼まれた。
「主人が亡くなってから、私がこの家を空けることはなかったのにぃー、大丈夫かしらぁ。野田さん本当に留守にしてもいい? お願いしますねぇ。すいませんねえぇ!」
この1週間に何度も同じ話を聞かされた。僕のことが心配と言うよりはご主人のいない家を守っていない自分に不安を感じているみたいだった。そして、その埋め合わせとでも思ったのかいつもより更に豪華な弁当になっていた。

「中学の時、野球やってた、栄和中学の……」
中学の頃はずいぶんいろいろな学校と試合をした。北海道各地の中学やクラブチームと対戦した。栄和中学は岩内町の隣町にある中学校だが、対戦した記憶はそんなに残っていない。3年生の時には対戦してないだろうから、もっと前の話をしているのだろう。
「私、おんなじ中学なんです。高梨君と。」
「ごめん、あんまり覚えてないんだけど」
この子の言おうとしている目的がわからなかった。
「高梨裕太っていう、結構有名だったと思うんだけど……」
「野球で?」
「今、駒苫の野球部」
「へえ!そう。うまいんだ」
「中学の時、私たちの学校で、なんか有名人で、うちの学校の野球部始まって以来の豪腕だって評判だった。いろんな高校の先生が見学に来てたみたい。」
「へえっ、そんなやついたんだ……」
「高梨君は、野田君のことすごく意識してたみたいだよ」
「僕のこと?」
「2年生の新人戦の地区大会で打たれたから」
「新人戦?」
「うちの中学が会場になったんです。」

栄和中学は、近隣の3つの学校が合併してできた学校で生徒はスクールバスで遠くから通ってくる。グラウンドは校舎のすぐ裏にある丘陵地帯につくられた広大な運動公園の一角にあった。この地域で行われるスポーツイベントはすべてここで行われるようで、その資金は原発の補助金であるらしい。中学生が使う球場としては恵まれ過ぎる程の立派で新しい球場だった。

「ああ、そういえば、やったことある。思い出した。2年生の時のね」
「結構広い野球場だったのに、野田君ワンバウンドでフェンス越える当たり打ったんです。高梨君から。それがすごくショックだったって。」
「彼氏なの?」
松山さんの瞳に光が走った。
「私、ああいう人、嫌い。」
この子は何のために高梨なんとかの話をしてるのかわからなかった。
「私その試合見てて、なんか気持ちがすっきりしたというか、学校生活楽しくなったというか、神様はやっぱりいるんだと思った。」

普段は言葉数の多くない彼女だが、何か彼女自身鬱積したものがあるんだろうか。
「思い出した。そのピッチャー確かさ、背は高くないけど、がっしりしてて力任せに投げ込んでくるやつだった。なんか、むりして力んで腕の力で真っ直ぐ投げてきたんで、みんなでコンパクトにミートすることにしたら、ますます力んで真っ直ぐ投げてきた。」
「何でもそういうふうにする人だった。ちっちゃい頃からずっとそうだった。」
「近所?」
「道路はさんで斜め向かいの家」
「そう!……で、何でそんなこと話してるの?」
「うん、南が丘に来て、野田君がいたのにびっくりしたの。きっと、高梨君みたいに野球の有名校に行くんだとばかり思ってたから。あの人もそう思ってた。最初は違う人だと思っていた。でもやっぱり、野田君はあのときうちの中学で高梨君を打ちのめした人で、それでも野球してなくて、陸上部だなんて……」

「なんかそれが、君に関係あるの?」
「いや、何か、私なんかやりたくなっちゃったんだ一緒に。」
「一緒にって、僕と?」
「うん!」
「なんで?」
「なんか、野田君が中学時代のうちの学校の雰囲気変えてくれたと思うの。」
「僕は、君の中学と関係ないよ」
「いや、関係あるよ。あのときうちのグラウンドでうちの野球部を負かせてくれた野田君が、高梨君を変えさせたし、高梨君の天下のようだったうちの学校の雰囲気を変えてくれたんだよ」
「関係ないって」
「いや、私たちみんなそう思っていた。だから、今も何か一緒にやってみたいなって」
「僕は別になんも……」
「山口さんにはいろいろ聞いて教えてもらったから、陸上部のために頑張るんだ。何かそうすることで自分が変わりそうだから。決めたんだ。」
「……」

なんと言われても僕に関係することじゃない。
「高梨君、もうベンチ入りしてるみたい……」
そんなことはどうでも良いことだった。本当は高梨裕太のことはよく覚えていた。中学ではかなり名前の知れたピッチャーだった。近くに豪腕投手がいるという話を聞いて、2年生の頃僕らの野球部はかなり盛り上がって打つ方法を考えた。実際にあたってみると確かにスピードが速く良いピッチャーだった。でも、ただ力任せに投げているのがすぐにわかり、僕たちは真っ直ぐ狙いでミートできることを見せてやった。

初回から真っ直ぐを簡単に打ち返されて、高梨はますます熱くなって腕に力の入った投げ方になっていった。初回に3点とられて2打席目になると、カーブばかりを投げてきた。慣れないカーブはコントロールも威力もなく、かえって打ちやすい球になった。その回更に4点取られて高梨はグローブを投げつけて降板した。2番手のピッチャーは丁寧に投げる選手だったのでスピードがなくてもこっちの打ち損じでその回はなんとか終了した。結局4回コールドで僕たちのチームが勝ちその年の新人戦を制することになった。その頃最も注目されたピッチャーだった高梨は、試合途中からベンチを離れていなくなっていた。
「あいつはもう終わった。」
そう言い切る仲間が何人もいて、高梨の話をすることもなくなっていった。
彼女の話を聞いた限りでは、お山の大将だったアイツがちょっと変わったのだということだろうか。
でもそんなことはどうでもよかった。

午後の練習が始まった。
今日は高跳びの練習をしている。山野沙希が相変わらずリズムに乗れずにいる川相智子に右腕の使い方を教えているところに野田啄磨がやって来た。野田啄磨は走り高跳びで全道大会に出場したが予選記録を越えられずに終わった。出場選手中ただ1人のベリーロールで挑んだ彼は注目の的で、新聞社や雑誌記者の質問攻めに遭っていた。そのせいかどうか、1m80㎝の予選記録を越えられなかった。振り上げの鋭さとバネで跳んでいる彼のジャンプはもう一時代も二時代も昔のもので、スピードを生かせる背面跳びにかなわなくなっていた。

彼の重心を下げた11歩助走に比べ、背面跳びの連中はフィールドをとびだして9コースある走路の1番外側から長い距離をとってスピードを上げる選手も多くいるくらいなのだ。
「タク、背面に変える気になった?」
同じ名字の野田啄磨は「タク」と呼ばれ、野田賢治は中学の時と同じく「ノダケン」と呼ばれるようになっていた。
「いや、絶対ベリーロールでいく!」
確かにタクの跳び方は右足の振り上げる強さが武器なのだからベリーロールには合っている。このままの跳び方を背面跳びに移したとしたら、スピードに負けてしまうか。軸足の足首を痛めてしまうに違いない。スピードを活かす背面跳びだと彼のように深い後傾は必要なく、円を描く助走から生まれる内傾姿勢が利用できるため助走後半の沈み込みももっと浅くてすむようになる。だから背面跳びの方が技術的には簡単なのだが、タクは膝を曲げた振り上げができないのだ。

「何こだわってんの?」
「だっておまえ、途中で変えたら負けたようなもんじゃん。」
冗談で言ったつもりが、タクは本気にしたようだ。
「ノダケンは……、今までやって来たことすぐ変えられんのかよ?」
「今まで何にもやってないから。変えるもなんも、もとの形がない。」
「野球から変えたじゃねえかよ」
「それは、別なことだろ! おまえは、逆に変えられないんじゃねえのかよ」
「違うって、なんかみんな流行に乗らなきゃなんないと思ってるだろうけど、そうじゃないことだってあるんだ。いったんやろうと思ったら、最後までやるんだよ!」
「いやー、かっこいい言い方だけどよ、ダメな部分は変えながら進歩するもんだろ。歴史的にも、科学的にも、進歩とか進化ってそういうことじゃん。」
「いや、これは違う。自分の信念だって。こだわることも大事だ。」
「そうかい……」
同じ名字であることからか、2人は兄弟のような言い合いになることがある。というよりも、珍しく互いに気兼ねなくずばりと言うことのできる関係になってしまった。

野田啄磨は、札幌近郊の江別市からやって来ている。中学時代は常に学年トップの成績で、江別駅前に開業している父親の病院を継ぐことを義務づけられた一人息子なのだという。陸上部に所属する生徒だけでもこれだけ医者の跡継ぎが多いことに驚かされると同時に、自分がこんな優秀な生徒達と一緒の学校にいること自体が驚くことだった。
「おう、野田兄弟!」
そういう言い方をするのは、新しく陸上部主将に選ばれた坪内航平だ。高校生の平均身長が170センチを超える時代だ。165㎝に満たない坪内さんは、男子部員の中でも小さい方に分類される。野田啄磨は182センチで58キロ、野田賢治は178センチで68キロだ。いきおいどんなに坪内さんが強い言い方をし、バカにした口調になろうと、彼はいつも二人のことを見上げた状態で話さなければならなかった。僕らにとってはそれが、どんなにひどい言葉で、バカにされたような言われ方あっても憎みきれない理由になっていた。やっぱり彼も精一杯の見栄を張り、精一杯の努力をしている先輩の一人なのだ。

「新人戦の出場種目明日決めるからな。」
「坪内さん、200も出るんすか?」
タクがちょっと目尻を下げて話した。
「当たり前だろ、2種目出れんだからよ。え、それともおまえが出たいってのか?」
「いえいえ、やっぱりなー、すごいなー、と思って」
タクは足が遅い。本当に遅い。陸上部としてははずかしいだろうと言いたくなるくらいに遅いのだ。12秒台で100メートルを走る山野沙希の相手には全くならないし、14秒台の川相智子と良い勝負なのだ。それも、タクが背面跳びに変えない理由の1つだ。

「オメーは、高跳びしか出ねえだろどうせ。ノダケンの方だよ。」
急にこっちに三角の目が向いた。相変わらず相手を指さしながらしゃべり続けている。
「こいつが、なに出んのかはっきりしねえからよ、いっつも! 早く決めてもらわねえと、他のやつが困・る・ん・ですよ!」
やっぱり嫌な人だ。3年生がいなくなったらなおさらそのとげとげしい言い方に鋭さが増してしまった。

「僕ですか? 僕は何でも良いすよ。何でも出ますから。」
「ばーか!そんなやつがいるか! 自分の希望ってもんがあんだろ。何でも出るってのが1番失礼だろって。2種目出れんだから、早くなんかに決めろ!」
本当に何でもよかったのだから、余ったので良いと言いたかった。でも、確かにそれは他の仲間に失礼な言い方だし、思い上がった言い方でもあった。こんな時、マネージャーの山口美優さんだったら、きっと幼稚園児か小学生を諭すような言い方で考えをまとめてくれていたはずだ。

「ハードル……、誰も出ませんよね? ハードルにします。」
「おまえ、ハードルであんだけ失敗したのにかよ。」
「イヤーなんかもうちょっと何とかなるんじゃないかと思ってるんですよ。あん時、失敗したのがちょっと頭に残ってて、早いうちに消し去りたいなー、って思うので」
「おまえもちゃんとこだわり持ってるじゃん。良いぞ!」

走り高跳びの踏切位置では、山野沙希が右肩の使い方を川相智子に教えている。彼女の話は結構高度な内容ばかりだった。微妙なタイミングと細かな動きが要求されることばかりだった。でもそれは、もっと後の段階のように僕には思えた。川相智子に今必要なことは、野球で言うと素振りだったり、トスバッティングだったり、キャッチボールだったり、ベースランニングじゃないかと思うのだ。山野沙希はどうすればぎりぎりの高さをうまく超えられるかを考えている。いわば、もう頂点に近いところまで到達している選手だ。それに対して、川相智子や僕はまだ登山口から少しだけ入ったところにいる。

山野沙希が厳しい顔をしてやって来た。川相智子もその後から視線を下に向けてやって来る。
「ねえ、松山さんって、マネージャーできると思う。」
松山恵は短距離グループの樋渡たちとグラウンドの反対のコーナーのところにいて、なにやら話しながら記録をとっていた。バインダーに挟んだ資料に懸命に何かを書き込んでいる。首からぶら下げたペンは山口さんが使っていたもので、蛍光色に西日が当たり黄緑色に発光している。
「ノダケン、松山さんのこと知ってるんだって?」
山野紗希は野田琢磨と一緒の時にだけあえてノダケンという呼び方をしている。
山野沙希の後ろから川相智子の目も真っ直ぐに僕を見ていた。

「知らないって、誰がそんなこと言ったのさ?」
「おんなじ中学なんじゃないの?」
「イヤー、だから違うって、隣町の中学らしいけど、ついこの間そのこと聞いたばかりだよ。」
「なんで、こんな途中からマネージャーなんてやろうと思うかなー」
「良いんじゃねえの。裏方やろうってー気持ちが大切だろ。ありがたいことじゃあございませんか!」

高跳びのバーを160センチに上げて戻ってきたタクが軽い口調で言った。
「へー、タックンかわいい子好きだもんねー!ついこないだまで、クラスの青木さんのことばっかり言ってたけどねー」
山野沙希とタクは同じクラスで、クラス内ではみんながタックンと呼んでいるらしい。
「松山さんてかわいいよね。山口さんとはまた違って、なんか、小柄で愛くるしいって言うか……」
松山恵はグラウンドの校舎側の方に移動して中川健太郎たち長距離グループの話を聞きながら同じように、バインダーの書類に目を通していた。
「健太郎とおんなじクラスだったろ。なんか言ってた?」
タクはそう言ったが、誰もそれを聞いていなかった。もっとも、健太郎のことだから、何かを聞いていたにしても自分から話すことはないだろうことはみんな知っていた。

「あのな、山口さんの話だと、父さん同士が知り合いっていうか、同僚なんだとよ」
さっきからずっと付きまとうようにここまでやって来ていた坪内さんが言った。新しい陸上部主将としての役目を果たしているような言い方だった
「彼女も帰国子女なの?」
タクは大きな声を出した。グラウンドにいた何人かが振り向いたが、松山さんにまでは聞こえなかったようで、中川健太郎と何か話を続けていた。

「うるせえよ、おまえはよ!最後まで聞けって。いいか、同僚ってのは、日本に帰ってきてからの職場が同じってことよ。入社が同期だったから家族同士のつきあいになったってことらしいぞ。それでよ、山口さんと同じ高校に通って、山口さんの後釜になったって言う筋書きよ。」
時代劇にでもはまったように、得意げにそして、珍しく流れるような言い方をした。
「坪内さんも、かわいい子好きですもんね!」
唇に力を込めたように、山野沙希のしゃべりがますます鋭くなった。

「あのね、山野。野球部でもさ、バレー部でも、ちゃんとマネージャーいるでしょう。野球部なんて4人もだよ。陸上部にはこの2年間山口先輩がいたけど、後釜がいなくなったら困るでしょう。だから、余計なこと言わないで、気持ちよく裏方やってもらえば良いじゃないさ。なんも問題ないでしょが」
山野沙希は何も言わなかった。それでも、不機嫌な表情には変化がなかった。川相智子は何か言いたげだったが、坪内航平さんを大の苦手にしていたので黙ったままだった。

坪内さんがほかの場所で練習する部員の方へ行ってしまうと。野田琢磨が熱心に助走練習を開始した。全道大会で予選落ちだったことでタクの意識も変化したのかもしれない。助走スピードがいつもより速くなっていた。そしてやはり、スピードに負けて踏切がつぶれてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?