文化決定論と種族差別

 中国はもちろん、日本にも多くの中国政治を研究している人間は「なぜ中国は民主化できない」という議題に対して本当に「研究し過ぎた」、基本的な民主主義原理、または初心などを忘れて、オカルトの域に達してしまったと言える、その末、文化や人種という政治ではない分野に元々単純のはずだった政治問題の答えを求め始めた。

 例えば「中国の文化は独裁の文化、だから中国は民主化できない」という観点、文化と言語は直接政治に影響できない、必ず学校教育に通じて影響する、違う教育を受けた人例え同じ言語を使っても政治思想的には全然別人種になる、学校教育をコントロールするのは政権だから、やはり政治的「独裁」は政治的に解決するしかない、文化の影響は確かにあるけど、主たる影響要因ではない。

 なぜ人々は政治的に解決を求めないのか、それも明らかである、政治的に解決(つまり共産党を退場させ中国体制の変革を起こす)は難しいから、難しいからほかの簡単そうな、あるいは自分に責任がないところに何か手を付けるかなって思うのは人間の共通点、それはミスリードの始まりでもある。

 文化決定論は非常に有害な考え方であり、種族主義の一歩手前、なぜこうなったかというと、政治に触りたくない、政治が怖い、文化や民族批判でなんとかしようと、こういう政治を議論したくないの社会の中で生きている人間ほど、文化決定論や種族主義者になりやすいである。

 一部のネット保守派、桜井誠のような堂々と種族差別(またはそのように見える)発言をする者を「単なるレイシスト」と批判している一方、文化決定論という奇妙な方向に持っていく、これは非常におかしいなところと気付いた。