最近思うところ 子供の父親の姿として

最近、ちょっと落ち着いたこともあり色々と考えるところがあります。

毎日子供たちと過ごす中で、大人というのは子供たちの将来像であり指標にもなっているのかなと考える。良い指標であったり悪い指標であったりするが、子供たちは成長することで今見ている大人たちのようになるのかなと想像するんだろうなと


大人たちが指標になっているとするならば、

やはり見られているという認識はしておいた方がいいと考え、僕自身の過ごし方をもう一度見直すことが必要だと深く思った。

生活の見直すところ

まずは子供が毎日の生活の中で明日も楽しみだと思えることが大事ということを前提としておきたい。
子供たちが明日も楽しみだ、その次も楽しみだという未来に対しての期待感が大きくなればなるほど意欲的な活動へとつながると思う。

そして子供たちの一番近い未来の姿は大人である。

さらに言うならば親兄妹である。
親である僕が日々どんなに育児に取り組んでいても、それがただの疲労感を漂わせるものであれば、子供の価値観として将来に対して、もしくは育児に対しての未来像は明るいとは思えない。


大人になったら疲れることは嫌だなとか、子育ては嫌だなとかあんな風には・・・なんて見られているなら将来への不安だけを募らせることになるだろう。

もちろんこのマイナス的な思いも考え方では、自分は絶対にそうならないという意欲に代わるのなら良いのだが受け取り方は子供それぞれなので、それも安易に期待してはいけないことと思う。


だから僕は思うのは、

親である僕はもっともっと楽しんでいる姿を子供に見せても良いということを最近になって理解した。

育児に比重を置くのは悪いことではない、ただし育児に苦痛感や疲労感を見せてマイナス的な表現をしていたのであれば問題だと思う。

子供たちと外で遊ぶにしても同じだ。

僕はインドアなので基本家に引きこもるのが好きだ。

子供たちと海に行ったりしても心から遊ぶというよりは子供たちよ!勝手に遊んでね。という面倒さを前面に出していたと思う。これは非常に反省すべき点だ。

よくお父さんたちでも自分の趣味に没頭している親がいる。もちろん育児をしつつなのだが、その子供を見ると妙に活動的な子だったり意欲的な子に思える。


僕はこれをずっと観察していた。

なぜだろうと
バッタなどの虫を一緒に取ることで変わるのだろうか、
海で一緒に泳げばいいのだろうか
山で山菜探すといいのだろうか
それだけじゃなさそうだ。

何かをいっしょにやれば良いってことではないようだ。


最近になって思うことは一つだ。
子供たちも意識はしていないが将来を思いながら日々過ごしている。

その将来への楽しみが大きければ大きいほど
意欲的な子になっているということだ。

僕を第三者の視点で見ると自分で言うのも何だが子供たちの面倒は見ている。
しかし、それが楽しんでいるのかというと違う気がする。
僕は正直、育児は業務としてこなしていた。
父親という職責である以上やらなければいけない仕事。


僕の念頭にこの職責である仕事という考えがあったから、僕が大人としての将来像に魅力がなかったと思う。

この僕の姿を見て僕の子どもたちは遊んでくれても楽しんでくれてはいないとおもっていただろう。

そして、楽しいことがない大人にみえていただろう


昔、長男に言われた言葉がある。
『おとうさんって笑わないよね』

これ当時は衝撃的だった、怒ってばっかりという意味かなとか色々と考えて生活態度をあらためたりもしたが、今は違う意味で理解しているつもりだ。
それは・・・

楽しんでないから笑っていない


僕は改めて誓う。
これから存分に人生を楽しむ。
子供たちも巻き込んでたっぷりと楽しむ。
もちろん妻も巻き込ませてもらう。


巻き込まずに勝手に遊べとなるが、ここは僕の考えでは違う。
楽しんでいる姿は子供たちに見せないといけない、

それがスポーツを習っている姿だったり楽器演奏だったり友達との談笑だったり。


子供たちの知らない所で楽しんでいても意味がない。

お父さんはこんなにも人生を楽しんでいるんだぞというところ感じてもらいたい。

見てもらいたい。

そして、君たちが大きくなってもこれだけ楽しめるだぞ、だから明日も明後日も楽しい事ばかりだぞと感じてもらうことが出来たらうれしいな。


背中を見せるというのはこういうことのように思える今日この頃です。


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