成功すればする程、人生の意義が無くなるジレンマ
シリコンバレーの多くの起業家により証明されたことは成功により自分の存在の意義を見出せなくなるということです。
人は成功を収めることにより、現状から外に出ることがどんどん難しくなってしまうのです。
この成功を収めてから現状の外に出るのが怖くなるという現象が日本では別のフェーズで生まれています。
日本では失敗は「恥」という文化が根強いように感じます。
なぜ日本人は失敗を「恥」と考えてしまうのでしょうか?
大きな失敗、例えば破産や逮捕など大きな失敗となる事案を見た時に日本では、その事は恥ずべきことであり、人から隠した方が良いというバイアスが必ず働きます。
それは上場審査や有りとあらゆる所で出てくるでしょう。
そもそもは教育現場、いや、これは生まれた瞬間からもしかすると1番最初に教えられることなのです。
しかし、どうでしょうか?
果たしてそれは本当に失敗だったのでしょうか?
それらは本当に恥ずべきことなのでしょうか?
皆さんが今、恥ずかしい、もしくは
「恥」と考えていることは本当に自分にとって恥なのでしょうか?
仕事で失敗してしまった
あの案件が受注できなかった
上司に話し方で怒られた
取引先から叱責を受けた
母親と話してる姿を見られるのが恥ずかしい
大学を出たのに仕送りしてもらってることが恥ずかしい
戦争で負けた
海外に比べて〇〇である
などなど、レイヤーを変えても枚挙にいとまがないです。
しかし考えて見てください。
本当に恥ずべきことはチャレンジも何もしなかったことなのでは無いでしょうか?
もしもこの思考が皆んなに有ればこの国はアメリカを初めとしたディープステートの奴隷に成り下がることはなかったのではないでしょうか?
多くが成功や失敗という言葉の中で踊らされて、失敗するのは恥ずかしい、だから何もしない方が良いとなっていることに気付くことすらできないのです。
つまりは
チャレンジも、成功もしていないのに、現状を打破できない思考に収まりにいくのです。
それも自らです。誰からもアドバイスを貰わずに自分からその恥ずかしい、「恥」という思考に収まりに行くのです。
思考を捨てるのをやめて、自身の思考を書くのです。
こんなことを書くのは恥ずかしい、こんな思考でいるのが恥ずかしい、こんな生活をしているのが恥ずかしい、この「恥」という思考が全ての障壁になっていることに気付くのです。
人に気付けと言われても気付くことはできません。
だから書くのです。
私自身もそうですが、こんなことを述べている自分は何者なのか?
と、問われると恥ずかしい気持ちになるかもしれません。
しかし、書くことでその自分に気付くことができるのです。
自分が何者なのか?
自分は何がしたいのか?
もしも人生があと〇〇日と分かっていれば生き方は変わるのではないでしょうか?
今41歳の私が70歳まで生きるとして残りの日数は10585日です。
仮に何らかの事故で生命を絶たれることも想定した場合にそれは60日後と私は考えるようにしています。
その場合、残りの人生は60日しかありません。〇〇年と考えると感覚がぼやけてしまいます。なので
〇〇日と考える方がもっとリアルに捉えることができます。
その時、今日の自分は本当に満足した人生と言えるのか?
自分のやりたかった、創りたかった世界の一助を担えたのか?を書くのです。
人生を賭して成し得たいことは何なのか?
多くの人が大金を得たとして何をしたいか?の質問に対して答えるのはまたしても自分自身の作り上げた枠の中で発言をします。
親の為、子供の為、恩師の為、友達の為、同僚の為、社会の為、地域の為、世界の為、恵まれない子供達の為と。果たしてそれは本当に成し遂げたいことなのでしょうか?本当に自分に向き合いきったと言えるのでしょうか?
成し得たかったことを書くことが始まりです。そして書いた後に寝て、振り返って見てください。残りの人生があと59日になっている自分とそれで良いのか?ということに。
人は誰の為にあるのか?それは自分自身の為に他なりません。
トレンドに目を奪われるのでなく、全ての物の構造に目を向けてどちらに向かっていくのか?という予測を人々が建てられるようになればこの欺瞞に満ちた社会構造に一筋の光を与えることになるのではないでしょうか?
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