コミュニティは世界観を共有する コミュニティ編

これはマガジン「コルクなヒトビト」の記事です。

クリぼっちな僕だけど、忘年会には、幸い、声を掛けてもらえている。

でもなぜ、僕を呼ぶのだろう。そもそも、なぜ、忘年会を開こうと思うのだろう。

実は忘年会を開く理由を幹事はそんなに自覚していなくて、僕を呼ぶ理由も単に過去呼んだからなのではないか、むしろそれこそが忘年会の声掛けの一番の理由なのではないか、と、お酒を飲むメンバーの横顔を見ながら思い付いた。その思い付きから、コミュニティとして僕らは、半分自覚的に、半分無自覚に、世界観の共有を確認して、世界観の共有を補強(強化)しているのではないか、と流れた。

これからその話をしていこうと思うのだけど、始めにお断りを三つ。

コミュニティについて。僕の勤めるコルクでは編集者という職業を再構築・再定義して「コミュニティプロデューサー」という名前を与えている(名前は似ているけどコミュニティマネジャーとは違う)。名前から分かる通り、コミュニティを重視している。だけど今日書くコミュニティは、そのコミュニティとは違うし、そのためコルクの見解とは関係ない。

世界観について。やはりコルクについてなのだけど、「クリエイターの世界観」「作品の世界観」という言い方が、対外的にも内部でもよくされる。今日書く世界観はその世界観とは違うし、そのためコルクの見解とは関係ない。

三つ目に、僕の考えを書くわけだけど、この話題について教育を受けたわけではないし、自分で調べたりもしていないので、実はみんな同様に感じていることをドヤ顔で書くことになるかも知れない。そもそも整理されてなくて、長文のくせに論理的じゃない。不必要に分かりにくかったり読みにくかったりするはずだ。笑ってやってほしい。

さて、では、始めましょう。

コミュニティ(忘年会メンバー)には望んで入るものではないし、自由に出て行けるものでもない。成員の意志は、入る/出る人の物にせよ周囲の人の物にせよ強い影響力を持つけど、それでも、意志によって入りたいから入る、出たいから出るとはならなくて、少なくともタイムラグがあって、場合によってはその意志は無視されたり説得されたりして果たされない。要は、何となくメンバーになっていて、いつの間にかフェイドアウトしているのが一般的だろうということだ(ここでいう「一般的」は「いつも成り立つ」ではなくて「そういう傾向が強い」くらいの意味。今後の断定についてもこの意味での一般的というつもりで読まれたい)。

「何となく」とか「いつの間にか」というのがポイントで、一回参加したからコミュニティのメンバーになったとは言い難いし、同様に一回いなくてもコミュニティから離脱したわけでもない。「たまたま顔を出した人」「今回は不参加の人」でしかない。コミュニティのメンバーというのは「いることが期待される人」「みんなが何となくメンバーだと思い浮かべている人たち(のうち、共通して思い浮かべられがちな人たち)」のことだ。そうすると、本人は「今年からは永久に忘年会に出ないぞ」と決意して事実その通り行動したとしても、翌年にはみんなの頭の中に僕はまだいる(ありがたい)ので、コミュニティのメンバーである、ということになる。「少なくともタイムラグがある」のである。おまけに、僕をとても気に入ってくれて、やんわり遠慮する僕に強く働き掛けて(ありがたい)また忘年会に引き戻す人が出るかもしれない。そうすると、そのことを知らない人にとっては特に、「去年いなかったよね、忙しかったんだっけ?」となる。ものすごい喧嘩をして、翌年出なかったとしても「去年のことがあったから仕方ない」と意識には上るし、ワンチャン仲直りもあり得る。「不在でも意識はされている」というのがコミュニティのメンバーだ(確執があって葬儀や結婚式に出ないはみ出し者も、コミュニティの一員である、という例の方が分かりやすいかも知れない)。例えば僕を、あなたの忘年会に呼ぼうとは思いもしないだろう。ましてや毎年顔を合わせようとはや。僕はあなたのコミュニティの成員ではないからだ。不在で当たり前、意識すらしない。個人的なつながりがある人は、「ここにいたら話し合うかもな」と思ってくれるかもしれないけど、一人が思い浮かべるだけではコミュニティが思い浮かべていることにはならない。

コミュニティはゴールを共有するチームや会社ではないし、趣味や好みが同じ人の集まりではないし、フェイスブックグループのように境界のはっきりした物ではない(形成の切っ掛けにはなり得る)。参加・離脱のプロセスには本質的に時間の経過を含んでいる(書類にサインして、はい今から忘年会メンバーです、とはならない)。そのため参加プロセスと離脱プロセスが近い時期に起こって打ち消し合うこともある。

ところで忘年会で、僕達は何をしているんだろう。集まって飲んで話して、二次会に行ってカラオケをして、解散して。単に遊んでいるのと何が違うんだろう。

集まることこそが本質的なのではないか、と思っている。

集まれれば、何でもいい。そもそも、忘年会は、普段集まらない人が集まるのだ。嫌いな人、苦手な人と同じ時間を過ごすことだって珍しくないだろう。それでも集まるからには同じコミュニティのメンバーで、何かを共有している。少なくとも「年の瀬に、大体同じメンバーで、飲み会(など)を行う」という恒例イベントを共有している。イベントの共有というのはコミュニティの維持にとても大切で、それは集まれるからだ。冠婚葬祭、定期不定期あれど、普段は思い出しもしない面子と顔を合わせる。「冠婚葬祭」のように共通言語になっていて、「こういうことがあったら、このようにして集まる」ということが共有されている(繰り返すが、たとえ従わなくてもだ)。(この辺は、情報・通信技術の発展で空間的には場所を共有しなくてもよくなっているかも。電報とか、ビデオレターとか、ウェブとか。)その中に忘年会もある。

さて、タイトルによるとここから世界観の共有まで話が進むはずだが眠たい。でもnoteが毎日の義務らしいので、何かを書かねばならない。代替の何かをこれから書く元気はない。というわけで、

四つ目のお断り。この記事は完結しませんでした。

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