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気高く生きるために、武士道

武士道と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
私は、切腹、強い克己心、武士は食わねど高楊枝くらいだった。小説などで切腹のシーンを読むと、現代とはまるで異なる死への覚悟の持ち方、1本筋の通った生き方は恰好よくは思えたが、現代に通じることがあるとは思えずそういう精神があったんだな、というくらいだった。

武士道に興味を持つきっかけとなったのは「葉隠」(奈良本辰也 訳編)を読んでからだ。本来は十一冊もある冊子だったそうだが、その中からテーマごとに配列し直して、分量もかなり減らされている。とても読みやすいが、現代にも通じることが取り上げてあり、考えさせられることも多い。「葉隠」というと有名な言葉があるそうだ。(本を読むまで知らなかったが……)

武士というは死ぬことと見付けたり

決して死ぬことを軽視しているわけではなく、日々いつ死が来ても良いように、選ぶべき時は死を選べるように、心構えをしておくということだ。人は誰でも死ぬことは知っているが、いまにもやってくるとは考えてもいない。武士は毎朝、行水し、髪を整えて香の匂いをつけ、手足の爪を切って軽石でこすり、こがね草で美しく磨いていたそうだ。武士が香まで付けて、爪まで磨いて身なりを整えることに驚いたが、ぶざまな身なりで討死すると、平素からの覚悟が疑われ、敵からも軽視され卑しめられるので、身だしなみを良くしたそうだ。

一瞬、一瞬と積み重ねて一生になるのだ。ここに考えがおよべば、ほかにあれこれとうろたえることもなければ、探し回ることもない。この一瞬を大切にして暮らすまでのことだ。一般の人は、ここのところを間違って、別に人生があるように思い、それを訪ね回って、この点に気づく者がない。

これはまさしく40代にさしかかるまでの私だった。将来が不安で今を大切にせずに、別の人生ばかり探し回っていた。そして、もちろん別の人生が見つかるはずもなくて、苦しんでいた。

昨年末あたりから、このような心持ちになってきた。いかに自分として生きる覚悟をもつか、ということだろう。

いまというときが、いざというときである。いざというときは、いまである。

ほかにも

人へ親切にする際は、自分がやったと相手にわからないように、主君(現代だと上司かな)へは他人の眼にそれとわからないように奉公するのが本物である。

人へ意見をする際は、その人と懇意になり、信頼してもらい、欠点を指摘するのではなく自分の失敗などを語って思い当たるようにしたり、良いところを褒め上げてから、指摘するなどして、そうして直るのが本当の意見である。

幸せなときは、自慢と奢りに気をつけなければならない。そのようなときはいつも以上に敬虔な心を持たないと失敗する。よいときにはずむ者は、調子が悪いとすくにへこたれてしまう。

など武士だけでなく、現代人にも通じることが色々と書いてある。

とても尊敬している人のひとり、執行草舟さんも、私の愛読書でもある「生くる」(講談社)の中で、武士道に触れている。執行さんは幼い頃から武士道に則って生きるとこを決意されていたそうで、書かれるものも厳しさを感じるが、その生きる姿勢には憧れすら感じさせる。その執行さんが書かれている文章が、まさしく私が武士道に心惹かれる理由だと思うので、すこし長いが引用させてもらう。

「気高さが薫るのは何故か。理由は一つ。己が自発的にそれをしているからである。自分を武士だと認識し、そうすることが武士道にも則っているから出てくる行動なのだ。したがって形式がいかなるものだろうと、己の意思ですることはそれ自体が、すべて美となる。(省略)自分から何かをする人間は美しく、させられる人間は無様となる。何事もそれをする中心にいる人間、つまり自己が、させられるのではなく、すると決められるかどうか。その心がけ一つで決まってくる。自らの自発的な意思で行うことは、たとえそれが道理的でなくても、必ず自分自身の糧となり人生を拓く」

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