イン・ザ・レイン

「本日、西日本の広い範囲で、寒気の影響により、雨が降るでしょう。最高気温は例年を下回る見込みで…」

部屋の真ん中でクッションにうつ伏せになりながら、望が恨めし気に天気予報の記事を読み上げている。
そして、その恨みの目線は間違いなく俺の方を向いている。

「仕方ないだろ。天気はどうしようもないんだから」

昨日、遊園地へ行こうと計画を立てたとき、予報は間違いなく「曇りのち晴れ」と書かれていた。
それが、翌日の朝になってみると、素知らぬ顔で「今日は雨でしょう」と言っている。その無責任さに俺は呆れた。

「もっと学問を頑張っていれば、こういう”社会的な地位は高いけど、責任感の薄い職”を目指せる未来もあったのかなぁ?」と望が言った。
機嫌が悪いわけではない。彼女は平常時からこんな感じだ。

「ちょっと待ってみよう。また天気が変わるかもしれない。」
「うぅー」呻きながら望が足をバタバタさせる。
「十代の男女が貴重な休日をただ家で過ごす。そんなの有り得ない。」

どんどん足のバタつきが大きくなっていく。壁が厚い家ではないので、あんまりやられると近所から苦情が入るかもしれない。
仕方なく、俺が折れる。
俺は何にも悪くないのだが。

「分かった。どこか出掛けよう。」
「出掛けるったってどこに行くの?ショッピングモールは子供で溢れてるから嫌だよ。あの空間って、家族連れが一番偉くて、若いカップルなんて独り身の中年男性の次に地位が低いんだから。」
「まだ何も言ってない。ちょっと考えるから…」と言いながら、内心で子供連ればっかりなのは遊園地も変わらないのではと思った。

頭の中でアイディアを巡らせた。
雨でも平気で、退屈しなく、望のお気に召すような場所。
「遼の頭の中に、この問題の答えはあるのかな?」気が付くと望が起き上がって、頬杖を付いてニヤリとこちらを見ている。
その時、一つの場所が浮かんだ。

「電車に乗って、終点まで行こう。」
「え?最近できた新しい駅ビルでも行くの?あれ、テナント見たら目新しいのは入ってなかったよ。」
「そうじゃなくて。とにかく、行ってみよう。」と、イマイチ納得の行っていない望を連れて、家を出て駅へ向かった。


§

天道川駅―ウチから歩いて15分の所にある、そこそこ大きな駅だ。
県の二大都市を縦断する本線の、ちょうど中間地点に位置する。
本線は通勤快速の乗車率が120%を超える。
乗車率の基準は席の埋まり具合かと思っていたら、「乗客全員が新聞を読もうと思えば読めること」と書いてあった。
つまり、乗車率100%の時点で一般的には満員電車の様相になる。

少し前に、朝8時の通勤快速に望と乗ったことがあったが、その後ずっと「乗車率が100%を超える電車は押並べて鉄道会社の怠慢なんだから、積載量違反のトラックと同じように警察が取り締まるべきよ。そうしたら、鉄道会社も真剣に対応を考えるでしょ?」と熱く主張をしていたのを覚えている。

そんな駅のロータリーまでたどり着いて、二人で傘を閉じた。
「天道川を歩いて渡ったの、初めてかも」と、望が独り言なのか、こちらに話しているのか、分からない位のトーンで呟いた。

商業施設が連なる町の中心部と、駅のある古くからのエリアは川で隔たれており、一本の長い橋で繋がっている。
いつもは自転車で渡るが、今日は傘があったので歩きだ。
天候のせいか、昼前の微妙な時間帯のせいか、他の人とはすれ違わなかった。

望の独り言に対して、俺も「確かに」と、これまた独り言なのか応えているのか分からない位の声で返した。

改札の手前までやって来た。
コンコースで鳴っている「ぴーんぽーん」という音が、ここまで聞こえてくる。

「それで」望がこちらを見上げる。
「どっち行きに乗るの?」と訊いてくる。
本線の上り列車に乗るのか、下り列車に乗るのかという質問だ。
「その、どっちでもないよ」と言い、切符売り場へ向かった。

「私、ニモカ持ってるよ。チャージしたばっかりだから、まだ結構入ってるし」
「念のために切符を買っておこうと思って」
というと、望が鋭い目でこちらを見る。
「ちょっと待って、ICが使えないような無人駅ってこと?どこまで行くつもりなの?」
そんなに遠くないよと望を窘めながら、携帯電話を使って料金を調べる。「片道880円だって」
値段を聞いて、そこまで遠くへ連れていかれる訳じゃないと安心したのか、望も大人しく切符を買って、改札を通った。

天道川駅には本線下り列車が来る1番ホームと、上りが来る2番ホームがあり、利用者の9割はそのどちらかしか使わない。
でも、実はこの駅のホームはそれだけではない。

2番線の奥から歩道橋が出ており、そこから行ける第3のホームがあるのだ。大照寺線。この辺ではかなり昔からある鉄道らしい。
乗用車がいまほど普及していなかった時代、遠路といえば鉄道だったのだ。

「こんな場所があるなんて知らなかった。やるじゃん」と言いながら、望が辺りを見て回る。
俺も実際にこっちのホームに来るのは初めてだ。
ホームには既に小さな単行列車が停まっていた。もともと白地に青のストライプのデザインのようだが、かなり色が褪せていて灰色に見えた。
タイルで舗装された本線側のホームと違って、石がむき出しの古めかしいく、プラットホームという今風の言い方よりも、乗降場と呼んだほうが似合う。

「これ、綺麗にしないのかな」「崩れてくれたら廃線に出来るからそれを待ってるんじゃないの?」
と望が情も情緒もないことを言う。

「でも、ここまで行くと逆に凄いよ。ほら見てよ」と望が指さした先を見に行くと、木を彫って白いペンキを流し込んだ時刻表が置かれていた。

もちろん、その横にデジタル印刷された、本線と同じフォーマットで書かれた時刻表もある。
それと見比べていると、もっと驚いたことがあった。
「木彫りの時代からダイヤが変わってない」
「昭和から時の流れが変わってないのね。しかも、今停まってる電車、あと10分しないと発車しないんだって。ホーム1つしかないのに?ホーム1つしかないのに!?」

時刻表をみると、上から下まで46という数字しか書かれていない。
毎時46分に1本だけ列車が来るのだ。

天道川の周りも決して都会ではないが、コンビニやファミレスは24時間営業してるし、ちょっと自転車を走らせれば24時間営業のスーパーだってある。この町は俺や望の「朝までの数時間だって待ちたくない」に応えてくれる。それに比べ、この時刻表に流れる時間はとてもゆったりだ。

「そういえば」俺は付け加える。「これ、電車って呼ばないらしいぞ」「へ?」という顔をした望に向けて、車両の上を指さす。そこには電線がない。
燃料を使って走るディーゼル車と言うやつだ。
「え、今から電気も通ってないような場所に行くの?もう人は居なくなって、駅しか残ってないってことなの?」
そこまでは言ってない。

その内、一人の女の人が車両に乗り込んでいった。
よく見ると、女の人以外にも、すでに2~3人が乗っているようだ。

「ねぇ、あの人」と車内に目を凝らしていた俺に向かって望が言う。
視線の先には、キャップをかぶったおじいさんがベンチにじっと座っている。
「生きてる?」と失礼なことを言う。
「生きてるに決まってるだろう」と無言で非難の目線をぶつけたあと、俺はおじいさんの元に近づいた。

おじいさんはぐうぐうとイビキをたてている。多分、長すぎる待ち時間に耐えかねて、寝てしまったのだろう。
「おじいちゃん」
俺は雨音に負けない大き目の声で話しかける。

すると、おじいさんはゆっくりと目を開ける。まだ意識はハッキリとしていない様だ。
「電車、来ましたよ」

おじいさんはようやく目が覚めたのか、停まっている車両を見てハッとした表情をして、
「おお、サンキューな」と言って列車に乗り込んでいった。
感謝された。気分がいい。

「あれぇ、これは電車じゃないんじゃなかったのかなぁ?」
戻ると早々に嫌味を言ってくる望にぴしゃりと「うるさい」と言って時計を見た。
「でも、電車を待つのに寝るしかないのも、起きてもまだ電車が発車してないってのも、かなり絶望的よね」
と望が言う。
確かに、いまどき何もせずにただ待つということはあまりない。

いよいよ目新しさもなくなり、退屈が勝るようになってきたのか、
手に持った傘をくるくると回している望に「そろそろ乗ろうか」と言い、
二人で古びた車両に乗り込んだ。


§


「ああ、これはこれは」
一応、周りの乗客を思ってか、小声になった望がつぶやいた。
確かに、普段乗っている電車と比べると”これはこれは”だった。

まず、扉をくぐると温い風が顔に当たった。
この雨の中でまさか窓が開いている訳がない。
かといって、エアコンの風にしては温い。
天井を見上げると、なんと扇風機が回っていた。

ちょうど車両の真ん中あたりの壁に電灯のスイッチのようなものがあり、それを使ってオン・オフが出来るようだ。
少なくとも、他所で見たことはない、絶滅危惧種の機械だ。

望は扇風機を見上げながら「いやあ、空気もオーガニックの時代だねえ」とよく分からないことを言いながら車内を歩いていく。

車両の中央はロングシートで、前後には2つずつのボックスシートがあった。
運よく、一番前のボックスシートが空いていたので、そこに座ることにした。

望が「わたし、酔わないからこっちでいいよ」と進行方向と逆向きに座った。
意外な優しさに感動しながら、望の正面に座り、二人とも荷物を座席の上に置いた。

席に着いてからも、完全に柔らかさを失った背もたれや、募集中が目立つ中吊り広告についてべらべらと喋る望を「どうか、周りの人には聞こえていませんように」と願いながら、聞いているとふいに
「あれ?もう発車時間過ぎてない?」と言った。

いまの時間は11時48分で、確かに、発車時刻の46分を過ぎている。
二人で席から顔を出し、運転席を見てみた。

こちらの話が聞こえてか、そうでなくてか、運転手が時計を見て露骨に二度見をして、慌てて帽子をかぶって発車させた。

「punctual」
「なんて?」
「”時間をしっかり守る”って意味の単語。大体、どこの単語帳でも例文に Japanese trains are punctual って書いてあるけど、例外の路線もあるいみたいね。」
「そんなこと言う人が居るから、日本の電車はここまで正確になったんだな」

望とそんな会話をしているうちに、車窓はどんどん動いていく。

一瞬、市役所やビジネスホテルのあるビル街が見えたが、そこからグイっと左へと線路は曲がり、一気に田んぼだらけの景色になった。

「もしかして、今のが最初で最後の文明?」という望の言葉に対し、
「そんなことはないと思うけど…」と言いながら、絶対にLEDではない古めかしい車内灯や、地平線の先まで緑と茶色しか見えない景色を見ながら、自信を持てないでいた。

予想通り、途中の駅はすべて無人駅だった。
運転手が切符を確認して「はい、どうぞ」というと降りていいシステムらしい。

望は「すごーい、完全無人駅だ。この前ニュースで見た、半無人のコンビニの先を行ってるね」と言っていた。

途中、先ほどベンチに座っていたおじいさんが降りるときに「さっきはサンキューな」と声をかけてくれた。
やっぱりいいことをすると、気分がいい。



§


「情報量がぐんと落ちたね」
「沢山あるだろ。木とか、畑とか、あと雨音とか」
「この窓が実は巨大ディスプレイで、映像が5分に1回ループしてても、絶対気づかないと思う」

確かに、ずっと窓の外を見ているが、この5分で何の変化もない。
いや、正確には群生している植物なり、育てている作物なり、きっと違いはあるはずなのだが、郊外育ちの俺たちには、その機微を感じ取るだけの目を持ち合わせてはいなかった。

そんなことを望に伝えると「ファストフードの濃い味に慣れて、素材の味を楽しめなくなった現代人みたいだね」と言った。
「でもさ」望は続ける
「この前、合宿で後輩がシチュー作ってくれたんだけどさ、具材に全然味が染み込んでなくてさ、『どうなってんの?シチューなのに素材の味がするんだけど?』って文句言ったんだよね」
「後輩の前でもそんな感じなんだな」
「だからさ、素材ってそもそも美味しくないんじゃない?だから、これだけ色んな料理が世界にあるんじゃないかな。ほら、昔は胡椒が贅沢品だったんでしょ。素材が美味しいなら、香辛料なんていらないよね?」
その考えも正しいと思うが、それ、いま言うか?


外の景色に少しずつ家が増え始め、集落のようなものが見えてきたころ、アナウンスで「次は終点、大照寺~」と聞こえてきた。
気が付くと、天道川を出たころには車体にざあざあと打ち付けていた雨も、少し弱まっていた。

終点はちゃんとした有人改札があるようで、乗客は運転手に切符を見せることなく、そのまま降車している。
降り際に望が運転手から「ごめんね。ちゃんと終点には時間通りに着いたからね」と話しかけられていた。
ちゃんとこっちの会話は聞こえていたらしい。
望はそれに対して「雨なんだから、安全運転してもらわないと困りますよ」と言って、運転手はがはははと笑っていた。
なんとも大らかで豪快な人だった。


§


大照寺駅―名前とは裏腹に、ベッドタウンの真ん中にある駅だった。
駅の四方を大きな国道が通っており、肝心のお寺がどこにあるのかは分からなかった。
望は「やっぱり教えじゃ人の欲には勝てないのね」と言っていたが、きっと因果が逆だ。
大きなお寺があってそこに人が集まったからこそ、その周りがここまで栄えたのだろう。
そのお寺がどこにあるのかは分からないが。

完全にここから折り返しの電車に乗ると思っている望に「じゃあ、ここから次の列車に乗ろう」と言ったら、
普段あれだけ口が達者な望が目だけで不信の念を訴えてきた。
大丈夫だ。次の列車の行き先を見たら、きっと気に入る。
さっきまでずっと座っていたのに「嫌だ。足が疲れてもう一歩も歩けない」と言う望を引っ張って、乗り換え先の反対側のホームまで引きずっていった。

普通列車 雨上行き。
この行先を地図で見つけたとき、絶対に雨の日に行こうと、ずっと考えていた。

「へぇー」
行先を見て、望が言った。さっきほどの不機嫌さは言葉からは伺えなくなった。
「お洒落だけど、毎日使いたくはない駅名ね」
そこまで口を叩けるようになれば、大丈夫だろう。

俺たちがホームに着くと同時に、ちょうど次に乗る車両が来た。次の列車は二両編成で、さっきよりも横幅が大きいような気がする。
だが、相変わらず電線は見えなかったので、行先の発展具合にはあまり期待しないほうがよさそうだ。

発車までそんなに時間もなかったので、自販機で飲み物だけ買った。
望はいつもコンビニで買っているアップルジュースを、俺は初めて見た『ソーダ水』と書かれた、絵の具を混ぜたとき以外で見たことがないような綺麗な青い色をした炭酸ジュースを買った。

望に「これ凄い綺麗じゃない?」と見せたら「一口で生活習慣病になりそうな色」と言われた。
作った人が聞いたら泣くぞ。
「人はそんな簡単に病気にはならない」と返して、俺たちは車両の扉をくぐった。

内装は、先程まで乗っていた車両と比べるのもあるのかもしれないが、かなり豪華だった。
全席二人掛けのクロスシートで、丸い装飾の付いた灯りが、座席の上に並んでいる。
外が薄暗いので、電灯が倍になるだけで、視界が一気に明るくなった感じがする。

席の色もさっきまでの原色のような青色ではなく、ダークブラウンを基調にしたシックなものだ。
「おお、さながら特急列車」と望が言いながら、すたすた歩いて席を探す。
また、先頭車両の一番前が空いていたので、「わたし、窓側ね」と言いながら、こちらの返事も待たずに座ってしまった。
「はい、傘」と傘も渡してくる。
もう文句も言わず、俺も傘を受け取る。

二人が着席するとほぼ同時にドアが閉まり、列車が動き出した。
望が窓の外を見ながら「あと何分アスファルトが見えると思う?」と訊いてきた。
俺が「2分」と答えると、望は「じゃあ、わたしは1分」と言った。
結果は30秒で完全に緑しか見えなくなった。都会は一瞬である。

「もう、入ってくる情報がどきどき現れる『大木切ります』の看板しかないんだけど」
出発してから5分ほど経って、望が言った。
いつの間にか、田園風景を通り越して、森林の中を列車は走っている。
「雨も木に遮られて降ってこないもんな。窓開けても大丈夫なんじゃないか?」
「振り込んでこないかな?」と言いながら、さっそく望が両手で窓を押し上げる。
中々開かない。見た目以上に重いようだ。
ずずずという音を上げて窓が開く。

その瞬間、雨を含んだ木や土の香りが、線路の香りと混ざりながら、雨の日の少し冷たい空気として二人の顔を撫でた。
少し眠くなっていた頭が一気に目が覚めた。

と同時に、霧雨が車内に一気に入ってきた。望が慌てて窓を閉める。
そういえば、さっきから坂を上っていた気がする。
思ったより、山の高い場所にいるのかもしれない。

「高所で湿度が高くて地面が冷えてたら、霧くらい出来るに決まってるでしょ。学校で何を勉強してきたの?」
とこちらに怒りながら、濡れてしまった服と鞄を拭いていた。

「そんな難しいこと考えなくても、外を見たら分かったな」
少し遠くを見ると、すっかり霧で視界が悪くなっていた。
「霧って見た目以上にびしょ濡れになるんだよね。子供のころ、数メートル先も見えないくらいに霧が出た日に、面白がって外に出たら、ものの5分で髪までびしょびしょになって怒られた」
大きくなると、色んなことを忘れていく。
そして、そういう忘れてしまったことは、今日のように日常を離れたときに、ふと思い出すのだ。


§

次の駅は相変わらずの無人駅ではあったが、今までと比べると民家や学校などの建物が見えた。
今までの、誰が何の目的で建てたのか分からない駅とは違い、明確にこの辺に住んでいる人のための駅だ。

沢山の人が降りていく。運賃を確認する運転手は大忙しだ。
望は「見て、役所に書いてある村長さんの名前が森さんだって。やっぱこれだけ木が多い場所だと、そういう名前の人が偉くなるのかなあ?」
と呑気なことを言っている。
発車まで、もう暫くかかりそうだ。

ずっと乗っていて気づいたことがある。
この路線のダイヤを組んだ人間は、客が乗り降りする時間のことを考慮していない。
全部の扉を開ければいい普通の電車と違って、この列車の場合は運転手の前からしか降りられない。
そのため、降りる人数によって停車時間は大きく変わる。
しかし、時刻表を見ると、停車時間は大体1分くらいしか想定されていない。
なので、どんどん列車は遅れていく。

さっきの駅で乗ってきた二人組が「5分待っても来ないから、もう行っちゃったのかと思ったわ」と話しながら入ってきた。
客もそれくらいのアバウトさで待っているらしい。

また望が「Japanse trains are ...」と言い出したので、俺は静止した。

集落を抜けると、いよいよ山は深さを増して、窓の真横まで木の枝が迫ってくる。
「毎日、この路線で運転手してたら、視力が一気によくなりそう」と望が言うほどに、一面緑色しか見えない世界だ。

雨に打たれた葉々を見ていると、思わず「命が生まれる場所って感じがするな」と口にしていた。
望は少し考えて、「むしろ、墓場って感じがする」と返した。
俺は、出ずるにしても還るにしても、望が同じ命のモチーフをこの景色に感じてくれたのだと、ポジティブに考えることにした。

手元のソーダ水を飲み干した頃、列車がついに山を抜けた。
視界が広く開けるのと同時に、日の光の温かさが窓から差し込む。
まだ小雨は降っているが、今日初めての晴れ間が空に覗いている。
その瞬間、アナウンスで「次は終点、雨上」と聞こえてくる。

望がこちらを向く。窓の外の明るさが後光のように見える。
「すごい、完璧じゃん。遼が晴れ男なのかな?それとも、わたしが晴れ女なのかな?」
「どっちもじゃないと、こんないいタイミングで晴れないだろ」
と言いながら、内心で「晴れ男か晴れ女が居たら、朝から遊園地に行けてたはず」と思ったが、口にはしないことにした。

ようやく、終点の雨上に着く。
車両がぎぎぎと大きなブレーキ音を出しながら停まると、
ここまで長い付き合いだった切符を運転手に渡して降りた。

終点だが、ここまで乗っていたのは俺たち二人だけみたいだ。
ディーゼル車の排気音が遠ざかり、かんかんと鳴っていた踏切が上がると、辺りは静寂に包まれた。

望が大きく息を吸って吐いた。
「はぁ、マイナスのイオンがわたしの中にある悪しき感情を全部、金色に輝く光の粒への変えてくれるのが分かるわあ」と怪しい宗教家のようなことを言っていた。

「ここで雨が止むくらいに運がいい二人が揃ってるんだし、せっかくなら虹も見たかったな」と俺がいうと、
望は「私は虹が見れなくてもいいから、一等の宝くじが欲しい」と言った。
その世俗への執着も金色に輝く光の粒に変えてもらうべきだ。

雨上駅は周囲に何もない、"終着駅"というのに相応しい場所だった。
車のエンジン音が遠くから聞こえるので、駅舎の反対側には通りがあるようだが、乗降場側からは線路と山と川しか見えない。

「ねえ、あの橋に行ってみようよ」と望が言う。
指をさすほうには赤い橋が架かっていた。
「どうせ、駅に着いた後のこと、何も考えていなかったんでしょ?」
その通りだった。


§


駅舎というには頼りない、木造のベンチが置かれただけの建物を抜けると、車通りに出た。
通りには、思いのほか家が沢山並んでいた。道路も中央線がちゃんとあり、歩道も引かれている。
「すごい!信号機だ!」「島の出身かよ」などと二人で喋りながら、
上り坂を10分ほど歩くと、さっき駅から見えた橋の元に辿り着いた。

「へえ、見てよ。この橋の名前」
なんと、橋の名前も雨上橋という名前だった。
そういえば、駅名がなんで雨上という名前なのか、よく知らない。
もしかしたら、名前の由来を説明した看板があるかもしれないと、二人で辺りを見てみたが、見つからなかった。

絶対に地名に関する民話があってその看板があるはずだと主張する望に、「橋からの景色も綺麗そうじゃん」と説得して、橋の真ん中を目指すことにした。

雨上橋は駅から見た印象よりも大きくて立派な橋だった。
鉄製の骨組みに赤いペンキが塗ってある。
車も通れるような橋なので、俺たちが通ったところで揺れたりはしなそうだ。

「こんないい名前なんだから、大きな解説ボードでも立てて、観光用の撮影スポットでも用意して、もっと宣伝すれば、無人駅から脱出できそうなのにね」
「でも、あの駅の辺りが小綺麗になるのも、なんか嫌だな」
「でたー、自分は街に住みながら、今残ってる自然を残そうとする人。誰だって、自分の住んでる場所が発展してほしいって、心の底では思ってるものよ」
「それに…」と言葉を続けようとした望が、橋からの景色を見て、言葉を呑んだ。

俺も望が見ている方をみて、そうなった理由がわかった。
「すげえ!今日来た道がずっと見える!」
この橋は思っていたよりもずっと高い場所にあったらしい。
ついさっきまで乗っていた鉄道の単線が、ずっと遠くまで続いているのが見えた。

「あ、みんな降りてた駅ってあの赤いのじゃない?」
あんなに大きかった体育館の臙脂色の屋根が、ここからだと小さな粒のように見える。
「もしかして、あれが大照寺じゃないか?」
はるか遠くに、緑が途切れて灰色の町が現れる区間が見える。
「この橋の下にも線路があるよ。これがずっと続いてるんだね。いやー、それにしても」
橋の真下を見ていた望が、顔を上げる。

「遠くまで来ちゃいましたね」
「本当にそうだ」
心からそう思った。

数分間、二人で黙って常識離れした風景を咀嚼したところで、俺が口を開く。
「じゃあ、そろそろ現実に戻りますか」
「わたし達、文明の元でしか生きていけないからね」


そう言って、元来た道を駅まで下っていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。
望が「雨上の呪いだ。これから一生雨が付き纏うんだ」と言いながら、速足で駅舎に入った。

携帯電話で帰りの列車の時間を調べる。
あと10分も待たずに次の列車が来ることが分かった。
ちなみに、これを逃すと次は1時間半は来ない。

望が「ここの電車が時間通りに来るわけがないから、橋と逆方向も見てみよう」と主張したが、
俺が「信じて裏切られるのはいいが、その逆は許せない」と反論し、結局待つことになった。

帰りの電車はきっかり時間通りに来た。
運転手も行きの豪快な人柄というより、几帳面な印象を受ける人だった。
時刻表を細かく確認しながら運転している姿がなんとも現代人らしく、俺らが元の世界に戻る手助けをしてくれているみたいだった。

(完)

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