死と期末テストを比べました。

”生きるものは全て、いつ死ぬかわからない死刑囚だ。”

この前のnoteで紹介した言葉だ。
今回もこの言葉を別角度で、考えたいと思う。


要するに僕たちの人生の果ては死で終わる。
これは全人類共通の認識だ。

「いえいえ、僕は寿命がきたら、すぐさまカブトムシになります」
という人はいないわけだ。

物事には例外があったりするわけだが、死に関してはそれはない…はずだ。
僕たちはいつか終わる。

では、この”終わる”というワードに焦点を当ててみよう。

また、物事を考えるときには何か比較対象を置いておくと、何かと便利だ。
そこで、パッと思いついたのが高校の期末テストなのだ。

ツッコミを入れたくなる気持ちを少し辛抱して読み進めてほしい。

期末テストもいつか終わる。
終わった時の幸福は今でも鮮明に思い出せる。
スケールの差は甚だしいが、”終わる”という点において類似している。


しかし、死と高校の期末テストを比べたら、ダメだろ。
最初はそう思った。でも、意外と類似してるのではないか…?
そう思ってしまった点が一つあったのだ。

僕の中で明らかに違うと思っていたのが、点数化だ。

テストには100点満点中何点だったか。
テストが終わったあと、数値化される。

人の死はどうだ?
自分がもし死んでしまって、子供達に「お父さんは75点だった。」
と言われたら、死んでも死に切れない。

「あとの25点はなにをすればよかったのか?」
そう思い、何が何でも現世に居座るだろう。

しかし、似たようなものがあることに気づいた。

高校などの期末テストは、
テストの日に良い点数がとれるように勉強に励む。
テストが終わり、先生や、お母さんに「100点じゃないのーすごいじゃなーい。」と褒められ、僕はガッツポーズをする。

それと同じように人間にも終わりがある。
もちろん、期末テストのようにいつ終わるのかわからないわけだが、遅かれ早かれ人は死ぬ。


テストは100点をとるために頑張る。
では、自分が死んだ時、何のために人生を頑張るのか

それが弔辞ではないか。
(弔辞は、故人の霊前で故人に捧げる弔いの言葉だ。)

僕はそう思ったのだ。

その弔辞になんて書かれたいのか?
誰がそれを話しているのか?
その人はどういう表情をしているのか?


それは点数化できないもの。それは分かっている。
でも、そこに書かれたいことや書かれたくないことは容易に出てきた。

例えば、


「お前は人を思いやる最高のライバルだった」
「どんな時でも優しく、強いパパでした」
「父の背中を見て、僕は育ちました」
「お前が出演したあの役は最高だった」
「お前の作ったあの映画は俺の人生を変えてくれた」


そんなこと言われてみ、泣いちゃうよね。


逆に。

「北林!人を蹴落として、てっぺんまで登り詰めたな!」
「北林!お前の乗ってたベンツ、乗り心地最高だった」
「北林!お前が所有してた無人島での日々は、楽しかった」
「父の背中…?てか、お父さんはあまり家に帰らなかったからな〜、俺から言えることは何もな…あっ!テレビに映るお父さんはかっこよかった」


嫌だーーーーーーー!
言われたくないよーーーーーーー!


そう思うわけだ。

しつこく言うが、
テストは100点をとるために頑張る。
では、自分が死んだ時、何のために人生を頑張るのか。


自分が弔辞に書かれたいことである。

それを念頭において、今を生き、実行する。


これが実行でき、死ぬまでに成し遂げられ続けた時、
期末テストでいう100点=人生でいうと、本当の成功者であるのではないか。


”生きるものは全て、いつ死ぬかわからない死刑囚だ。”


この言葉は、終わりを強烈に意識させる。
でも、終わりを思い描くことで、今をどう生きれば良いかの指針を教えてくれる。

明日、死なないという可能性は100%とは言い切れない。
だから、いま目の前にいる人とどう接したいのか。何を伝えたいのか。


だから、みんなに告ぐ。


皆さま、本当にありがとうございます!感謝感謝でございます!
今後ともよろしくお願いいたします!


北林佑基

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