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沖縄叙情歌の真骨頂・ナークニーを考える

突然だが、皆さんは『ナークニー』という曲名を聞いた事があるだろうか?
沖縄を代表する叙情歌の一つであるが、歌三線をやられている方にとっては「難しい歌」というイメージが強いかもしれない。その即興性に富んだ歌詞とメロディーの多様性が唄者をして「難しい」と言わしめる所以なのだろう。

今回はそんな不思議な魅力に満ちた歌『ナークニー』の秘密に迫っていきたい。

ナークニーの起源

ナークニー自体は沖縄島内各地に存在し、地域ごとあるいは歌い手ごとに異なる趣を持つ歌として人々に親しまれている。

そんなナークニーを漢字で表記すると「宮古根」あるいは「宮古音」となる。そう、現在では沖縄島で広く歌われているナークニーだが、一説によると宮古の歌(あやぐ)にその起源があると言われているのだ。

時は琉球王朝時代の1600年代、宮古島から沖縄島に留学に来ていた青年が毎晩のように故郷の歌を歌い、懐かしんでいた。それを聴いた現地の人が感銘を受け、自らも宮古のメロディーに似せた歌を作ったのがナークニーの始まりとされる。

事実は定かではないが、キャンパスレコード代表取締役で作詞家の備瀬善勝(ビセカツ)氏によると、本部・今帰仁方面のナークニーが最も古くに成立したものではないかという。

〈ナークニー〉
渡久地から上てぃ 花ぬ元辺名地ヨ
遊び健堅ぬ 恋し本部

ありや本部崎 くりや名護曲いヨ
近くなてぃ見ゆさ 城東江

名護からや羽地 伊差川や一里ヨ
真謝兼久までぃや 二里ぬちむい

〈かいされー〉
嘉津宇とぅ具志堅とぅ 浦崎とぅ謝花
浜元とぅ渡久地 ジントーヨー伊野波とぅ満名

常我山登てぃ 歌すゆる童
たしか山入端ぬ ジントーヨー薪取や小

遊び知やびらん 歌ん知やびらん
我んや今童 ジントーヨー許ち給り

これがナークニーの中でも最もルーツに近いものと言われる「本部ナークニー」である。自身も本部で生まれ育った山里ユキが故郷の情景を切々と歌い上げている。

山里ユキ

山里ユキ(1937-)

沖縄各地への伝播~毛遊び唄としてのナークニー

ナークニーの人気は瞬く間に沖縄島各地へ普及し、それぞれの土地で異なる特徴を持った歌が形成されていった。その過程でナークニーはサンパチロク(八・八・八・六=琉歌の節)に乗せて思い思いのまま歌う即興歌としての地位を確立し、時には思いを寄せる人に贈るラブソングになったり、自らの心情をしみじみと歌うものになったり、人を笑わせるコミカルな歌になったりと、様々な顔を見せるようになった。

バラエティ豊富なナークニーは年頃の若い男女に広く愛され、毛遊びでも盛んに歌われた。毛遊びとは、かつて沖縄で行われていた集会で、夕暮れ時から夜にかけて若い男女が野原や浜辺に集まり、歌踊りを通して交流し出会いを育んだものである。今までにナークニーが結んだ男女のご縁の数は数え切れないほどあっただろう。

ナークニーの名人たち

毛遊び唄として親しまれたナークニーは歌い手によっても全く違う趣を醸し出す歌である。ここに特に人気を博した名人たちの歌唱によるナークニーをいくつか紹介するので、聴き比べてみていただきたい。

①富原(トゥンバル)ナークニー - 富原盛勇のナークニー

湧川山見りば 唄すゆる女童ヨ
しゅらしウマニ達が 薪取いが

今日や名護羽地 明日や仲泊ヨ
明後日首里上てぃ 我沙汰みしぇら

月ん西下がてぃ 港潮や満ちゅさヨ
でぃちゃよ立ち戻ら 我島十七

舟や渡地ぬ 前ぬ浜に着きてぃヨ
綱や荒神ぬ前ぬ 浦に結でぃ

越地川ぬ水や 砂からどぅ湧ちゅさヨ
しゅらし姉小達が 声ゆ拝ま

屋我地姉小達が 薪取い山やヨ
ミッチリーとぅサラゲー 馬ぬカンヂ
でぃちゃヤッチー ハンタんかい

沖縄に現存する最古の音源で、大正中期の録音と考えられる。
従来の古典音楽の奏法にとらわれず、サグ(装飾音)を多用した富原盛勇のナークニーは新しい歌三線の世界観を開拓し、後年多くの唄者に影響を及ぼした。

富原盛勇

富原盛勇(とみはら・せいゆう、1875-1930)

1875(明治8)年、現在の那覇市繫多川生まれ。屋号は「ハンタガートゥンバル」。青年時代から三線の腕前で一目置かれ、毛遊びで披露させられたという。その後、寒水川(スンガー)芝居(首里演芸場)の団員となり、地謡から組踊の女形としても活躍した。劇団から退いた後の1930(昭和5)年、親泊興照・多嘉良朝成・我如古弥栄らとともにハワイ公演へ赴いた帰路、船が時化に遭った。遭難すると思った盛勇は土産のウィスキー数本をストレートで飲み干し、それが原因となって咽頭狭窄症にかかり、同年暮れに逝去した。

②輝忠(コンチュウ)ナークニー - 宮城輝忠のナークニー

〈ナークニー〉
昔語らたる 夢やちょん見りばヨ
しばし慰みん なゆらやしが

共に眺みゆる 人ぬ居てぃからやヨ
何ゆでぃ照る月に 我んね向かてぃ泣ちゅが

昔事やしが 肝や今までぃんヨ
忘り難なさや ありが情

〈山原汀間当〉
毛遊びぬ頭 ぶちげなてぃ寝んてぃ
如何し此ぬ遊び はまてぃ行ちゅが

今日遊でぃ明日や 寝んだわんゆたさ
如何し此ぬ遊び 投ぎてぃ行ちゅが

三線小三丁 姉小達が五人
遊ぶたる毛小に 思い残ち

1932(昭和7)年、当時大阪でマルフクレコードを営んでいた普久原朝喜の自宅でレコーディングされた音源。輝忠28歳時分の歌声ということになるが、到底そうとは思えないほどの渋さである。

宮城輝忠(高良輝忠)

宮城輝忠(みやぎ・こんちゅう、1904-2007)

1904(明治37)年5月、現在の東村生まれ。戸籍上の名前の読みは「こんちゅう」ではなく「てるただ」。師匠に就くことはなく、心の慰め程度に歌三線を楽しみ、毛遊びの経験も無いという。1930(昭和5)年、出稼ぎの為大阪市大正区へ移住。現地の鉄鋼所に勤務していた折に普久原朝喜から声が掛かり、『ナークニー』『ダイサナジャー』『移民口説』をレコーディングすることに。1935(昭和10)年、帰郷。1941(昭和16)年からは東村役場に勤務し、後に「高良」と改姓した。2007(平成19)年2月、102歳の天寿を全う。


③中頭風の宮古根 - 金城睦松のナークニー

〈ナークニー〉
芋や掘てあしが 上ぎて呉せ居らんな
見じ知らじ里前 上ぎてとぅらせ

芋や上ぎゆくとぅ 約束小ちゃーやが
島東毛小ぬ 松ぬ下や

〈山原汀間当〉
名嘉真から安冨祖 瀬良垣とぅ恩納 サーイ
谷茶・前兼久・仲泊 蔵波・山田
あんないかんない 波ぬけーりんねー

石川・東恩納 伊波とぅ嘉手苅とぅ サーイ
山城・楚南 思里前 栄野比・川崎
あんないかんない 波ぬけーりんねー

西原とぅ宇久田 知花・松本とぅ サーイ
越来から美里 思里前 花ぬ胡屋とぅ
遊ばちょーけ 踊らちょーけ

復帰前の1960年代に照屋林助のプロデュースによってレコーディングされた音源。

金城睦松

金城睦松(きんじょう・ぼくしょう、1902-83)

1902(明治35)年12月1日、越来間切(現在の沖縄市)大工廻御殿敷生まれ。幼少期から父・松の手ほどきを受けて歌三線を慣らした。16歳で大工の道に入り、24歳の若さで棟梁に。仕事帰りは毛遊びで自慢の三線を披露し、村踊りの師匠も務めたという。戦後、断髪屋を営む傍ら舞台に出演し、歌のみならずユーモラスな語り口で人気を博した。1983(昭和58)年8月9日没。嘉手苅林昌・照屋林助・知名定男ら、睦松を慕う錚々たる唄者が霊前で三線を披露し、別れを惜しんだ。

④嘉手苅林昌のナークニー

さんか馬車持ちゃや 天ぷらぬカシラ
鍋小ちゃらみかしぇ 馬小ゆるち

ガラス張い小光てぃ 天ぷらや冷じゅてぃ
ふしふぎぬ穴から 蟻ぬまんてぃ

年取たんとぅ思てぃ 鏡取てぃ見りば
なま年や寄らん 元ぬ若さ

若さたるがきてぃ 何時ん花むちね
思ゆらん風ぬ 吹かばちゃすが

元びれ小投ぎてぃ 新行逢小すんでぃ
二人に投ぎらりてぃ 裸なたさ

雨ぬ降てぃ晴りてぃ 我んね通たしがめぬか
今やひとぅ散りてぃ 身ぬ毛立ちゅさ

月や馬ぬ走い 年や飛び車
四、五年ぬ旅や 夢ぬ心地

共に眺みゆる 人ぬ居てぃからや
何んでぃ照る月に 我んね向かてぃ泣ちゅが

いかにも林昌らしく、自由奔放に飄々と歌い上げた感がある音源だ。

嘉手苅林昌

嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう、1920-99)

1920(大正9)年7月4日、越来村(現在の沖縄市)中原(通称:ヒージャーバル)生まれ。8歳の頃、母・ウシと共に『廃藩ぬ武士』を作って歌ったことをきっかけに歌三線を始める。その後南洋に移り住み、軍の雇員として島々を転々とした。太平洋戦争時、クサイ島のジャングルで立小便中に流れ弾に当たって負傷。そのまま捕虜となったが、1949(昭和24)年に帰郷。ウシはすっかり息子が死んだものと思い込み、帰って来た林昌を見るなり呆然と立ち尽くしたという。その後、沖縄芝居の地謡として頭角を現し、テレビ・ラジオや舞台などでも人気を博した。復帰後は竹中労主催の琉球フェスティバルへの参加などを通して全国的に知られるようになる。1994(平成6)年、沖縄県文化功労賞受賞。次男に嘉手苅林次がいる。1999(平成11)年10月9日、肺がんの為死去。享年79。

⑤山内(ヤマチ)ナークニー - 山内昌徳のナークニー

〈ナークニー〉
約束やしちょてぃ 二十日夜ぬ月ぬヨ
上がるまでぃ畜生 我んね待たち

約束ゆやてぃる 寝屋ぬ戸や叩くヨ
誰がしてい云しや 二人待ちゅが

〈山原汀間当〉
鶏やうたるとぅん 夜や明きてぃ呉るなヨーイ
稀ぬふやわしや 思やー小よ 語れでむぬ
サーサー 十七、八頃 花ぬ盛り

さらば天川や 島横になといヨーイ
でぃちゃよ立ち戻ら 思やー小よ 昨夜ぬ時分
サーサー 十七、八頃 花ぬ盛り

かくも甘いソフトな声で男女の恋を歌われると、聴いているこちらまで乙女の心になってしまいそうである。

山内昌徳

山内昌徳(やまうち・しょうとく、1922-2017)

1922(大正11)年4月25日、読谷山村(現在の読谷村)牧原生まれ。15歳の頃から本格的に三線を弾き、17歳でエイサーの地謡を務めた。1958(昭和33)年、NHKのど自慢全国コンクールで『ナークニー』を披露。これを機に人気が急上昇。「百年に一度の美声」と言われて沖縄民謡界の一時代を築いた。指導者としても久保田吉盛・外間愛子・瀬良垣苗子・饒辺勝子らを育て上げた。山内たけしは息子。2017(平成29)年8月24日死去。享年95。

おわりに

宮古の青年が口ずさんでいた歌に始まり、多彩な名人芸を生み出した民謡曲『ナークニー』。その人気は近年でも衰えることは無く、多くの若手唄者にとっての憧れとなっている。即興歌ということで、時代と共に節に乗せられる歌詞の内容も変わってくるであろう。今後どのような時代背景を映した歌が生まれることやら。ナークニーの世界は永遠に尽きることが無いのである。

参考文献

大城學(1996),『沖縄新民謡の系譜』,ひるぎ社.

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