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「民主主義の延命に一石を投じた、ニッキー・ヘイリー氏」そして、アメリカの民主主義と日本の民主主義について

今や、民主主義とは「制度の割と整った」アメリカですら、危機に瀕しているのは理解できるはずだ。
それは衆愚だったり、利権構造だったり、様々な要因だというのは周知のとおりだ。日本は特にそのストライクゾーンだ。

適切な大多数の民意を反映する「民主主義」の弱点は「長期独裁政権」を前提とした専制国家主義の存在であることは明白だ。しかし、歴史を振り返ってみると意外と「専制国家」がうまく行った例はあるのだ。

インド地域のマウリヤ朝の「アショーカ王」の時期などが良い例示となるだろう。

また、民主主義について疑念を持たなければならないのは「民主主義」で選択された「代議士」が、民意の「代表」となってしまうのか?(なぜ「代・義士」なのか?言葉の意味を理解すれば容易な事だろう)

この辺りにも、民主主義の形態の一部に於いて「逆説的な民主主義」の表層化が顕在化していると感じる。
つまり、あとは「お任せ」なぜなら「民意の代表」だからだ。

実際のところは「民意の代弁者」であり「代理業務」だ。それゆえに、議員には数々の免責事項が存在しているのではないか?現在の政治家はかなり勘違いをしているのだろうと私見を述べておく。

もはや、「我々の代表」というキャッチフレーズは、「衆愚政治の入口」であるのは明白だ。それは、リアルタイムに起きる事象に対しても、完全に委任しているのが「我々の代表」だからだ。リアルタイムに「民意を反映する仕組み」は今のところ、無視され続けている。それでよいのか?

さて、このところの国政の混乱の諸元の理由は見えてきたはずだ。それは「民意の代表」ではなく、政治家は「民意を「代理」して行動する」という、本来の姿勢や態度が「皆無」だからだ。

もう一つ言わなければならない。
政党支持母体についてだ。「強力な支持母体」が存在しても問題はないと思う。しかしながら、「政治は監視するべき対象」であると、創立者が強固な態度で発言を繋いできた組織も、いつの間にかその力をまったく失っているように見える。

武器の製造、輸出についても同様だ。
「軍需産業」を再興するような政党の「与党」の下支えの基盤になっていたら民主主義は話にならない。
私は、そういう組織をよく理解しているので、それも好ましい事とは到底考えられない。

それゆえ、前世代のご都合で「名簿に掲載されている」事自体が、私にとって相当の疑念なのだ。
繰り返し、色々な場面で名言しているが、私の生まれは「昭和49年1月27日」だ、その母体組織に加入したのは「昭和49年4月27日」だ。生まれて三か月の赤子に、判断の余地もないまま如何なる組織にも承認なしに所属させるのは、民主的でもないし、かなり一方的な思い込みによる人権無視と言えよう。

結論から云えば、民主主義は個々の経験・体験的価値観をある程度構築した「個々人」による「個人主義」を前提としてしか成り立たない。それは人類には無理な事なのだ。混乱の世紀に於いて、我々は制度疲労の改善、もしくは端的なやり直しを求められているように思う。

それは、人間という自らの存在できるスペースさえ、今の状況であれば「自ら消し去っている」のが実際だからではないだろうか?

ニッキー・ヘイリー氏は、できうる限りの腐敗とここに書いたような、反民主主義的な動きに、くさびを打つべき最低限の事をしたように見える。つまり、衆愚政治に対して「正常な状態にある民主主義」の姿を示したようにも見える。■


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