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クラブチーム時代の波乱万丈

今回も読んで頂きありがとうございます!
今回は大学時代に所属していたクラブチームでの話をさせて頂きます。

はじめに

 はじめにこの話は前回の高校黒歴史編(https://note.com/kita_hari_wa/n/n74321e8d597c) から続く要素が強いです。是非とも読んでいただければ幸いです。
 まず私自身、神戸学院大学在学中に当時兵庫県加古郡播磨町にあったクラブチームの全播磨硬式野球団に所属していました。何故大学の野球部に所属せずにクラブチームに所属していたかと言うと、まず大学受験に失敗したことから話が始まります。
 高校3年生の私は鹿児島県の鹿屋体育大学を受験し、学力・運動能力どちらも全く足りずに落ちてしまいました。我が家では浪人は絶対にしない様にして欲しいとしていて、滑り止めとして受けていた神戸学院大学に入学することとなりました。
 受験しようとしていたのは体育大学なので高校野球が終わってからも出来る範囲でトレーニングはしていましたが野球は全くしていません。神戸学院大学は入学後にセレクションが有るという話は聞いていましたが当時の私は「全く野球の練習をしていないし、大して強くない高校で高校時代ほとんど公式戦出場したことの無い様な選手なんて相手にもしてもらえない。」と思いました。ですが同時に「高校時代に不完全燃焼として終わってしまった野球を悔しいので続けたい。」という思いと「いつの間にか諦めていたプロ野球選手という夢をもう一度目指したい。」という思いが沸々と湧いてきました。そうして大学野球以外の硬式野球が出来る環境を探しました。そうして色々調べていると社会人野球のクラブチームという存在を知ることとなりました。
 社会人野球のクラブチームはチーム各自それぞれの特色を持っており、企業チームの様な会社のバックアップがあるようなチームがある一方、月謝を払いながらチームを回す同好会型のクラブチーム等様々な条件や環境でプレーしています。
 私の属していた全播磨硬式野球団は後者のチームで毎週土日に練習やOP戦を行うチームでした。入った当時は上は40代、下は高校2年というとんでもない年齢幅のあるチームでした。社会人として日中働いている人や学生、お子さんがいらっしゃる方等、選手それぞれの生活もバラバラで尚且つ、独立リーグや企業チームへの移籍を目指し個人のステップアップを目的としている選手や全日本クラブ選手権出場を目指し、チームとしての実績を高めたいという選手、その2つに当てはまらずただ野球をしたいという目的もそれぞれという中々にカオスで面白い形態でした。

大学1年

 この様な大まかな背景がありますがこれは大学4年間やったから言えることであり、当時右も左も分からない18歳の西尾少年はただ野球が出来る環境を求めて実家から一番近い播磨町のクラブチームに入ることにしました。ただこの播磨町は実家のある三木市から直線距離は近いのですが公共交通で行くとなると滅茶苦茶に遠くなります。

土日練習で使わせて頂いていた球場までの車で


公共交通ではすごい遠回り

 そしてチーム自体の活動は朝早くから始まります。(大体朝7時位にはグラウンドにいました。免許はこの時点ではとっていません。
 そんな状況なのでどんなに始発で行こうとも間に合わない状況でした。
 正直本当にこんな状況でしたらどこかで辞めていたと思います。ですが運良く三木市に住んでいる先輩が2人いらっしゃったのでここの部分は何とか助かりました。
 野球の方はというと高校編を見た人ならお察し頂けると思いますがほとんど出ていないです。年間成績3打席1打数0安打2四死球という何ともいえない成績を残しています。当時のチームは人数がそれなりにおり、当時の自分では出る幕はほとんど無いと言っても過言ではありません。ほとんどの試合をベンチでスコアを書いていました。
 この年のチームは全日本クラブ選手権の兵庫一次予選を勝ち抜き西近畿二次予選に出場しましたが初戦で敗退しました。これが僕が在籍していたときのチーム最高成績です。
 ちなみに毎年秋に社会人4チーム大学数チームの兵庫県知事杯というトーナメントでの大会が開かれるのですがそこで在学していた神戸学院大学と対戦しています。その試合はコテンパンに負けて尚且つ私はベンチでスコアを書いていたので恐らく大学の野球部の同級の子はすごい下手だから試合に出ていないと思っていたと思います。大正解なのですが…

大学2年

 この年は凄く血迷った年です。チームがクラブ選手権一次予選敗退した後に中学2年生以来にピッチャーをしたいと監督に申し出ました。ですがはっきり言うとほぼピッチャー初心者です。中学で投げたのは2試合、しかもコントロール無茶苦茶というノーコン速球派を地で行くタイプでした。
 そんな特徴は当時の自分も健在でした。地肩の強さは自慢でしたがコントロールは本当に酷いものでした。


ピッチャー時代の練習中 高校のセカンドユニフォームをよく着てました。


 この年2試合投げて1つは高校生相手でしたので1回を0で抑えましたが2つめは四死球連発で顔面蒼白、あまりに酷かったので監督を激怒して「お前はピッチャー名乗るな!」と言われる始末で本当にチームのメンバー表を投手欄から外野手欄に書き換えられていたことがあったりしました。その年、当時の監督が辞められるタイミングでその次の年に向けて色んな話をコーチとしているときに投手から外野手に復帰となりました。復帰といえば聞こえはいいですがはっきり言ってクビです。

大学3年

 この年が転機となる年でした。前年でかなりの人数がチームを辞めることとなり、私を出さなければならない状態となりました。最初は出たり出なかったりでしたが徐々に出る頻度が増えました。このときはただひたすら必死に食らいついて行くしかない状況でがむしゃらでした。そんな状態なのでとんでもないものから細かいミスまで色んなポカをしました。ですがそれと同じ位に想像したことの無い様なプレーが出来る様になってきました。
 象徴的な試合がとして覚えているのが四国銀行さんとのOP戦で初回フェンス際の打球をジャンプして取ろうとしてバレーのトスの様にボールを弾き、ホームランアシストを決めてしまうという大失態をしてしまいました。
「こんなん始めてみたわー!」と相手ベンチから聞こえてくる始末、正直ここからの記憶が殆どありません。とてつもなく怒られたのは何となく覚えています。そこから暫く経って5回か6回辺りに自分の前に打球が飛んできました。「あ、刺せる。」と打球を取る前から1塁ランナーが見えて気付いたら投げていました。ライトゴロが成立しました。
 このように良い意味でも悪い意味でもやらかす常時ギャンブルみたいな選手をしていました。
 そしてこの年は大学1年以来にチームが兵庫県知事杯に出ることとなりました。何の巡り合わせか対戦相手は在学中の神戸学院大学でした。この日が私自身に掛かっていた呪いの様な心の引っ掛かりが取れた日となりました。
 1、2打席目は凡退、3打席目にセンターオーバーの3ベースヒットを打ちました。この1本でランナーで出ていた苦楽を共にした同級生を返すことが出来て尚且つ、大学の野球部の同級生に自分の野球を見せることが出来たこと呪いが解けたような感覚になりました。大学1年で感じた疎外感の様な悔しさは無くなり新しい人生が始まった様な気がしました。

大学4年

 この年はあの新型コロナウイルスが流行り始め、1ヶ月〜2ヶ月程練習や試合が全く行えない状況がありました。やっと活動再開しても自粛期間中もある程度出来ることはしていましたが全く打てない様になってしまい、不甲斐ない思いをとても感じていたのを覚えています。
 この様な状況でしたが幸運だったこともありました。このタイミングで独立リーグを経験している方が2人、アメリカの大学に進学する予定の選手が1人入ってきました。3人は当時の私が経験したことのない高いレベルで野球をしていたので彼らのマインドを学べて良かったと今は思っています。この年がクラブチームにいて1番楽しかった年でした。
 そうしているうちにその年の後半となっていきましたが後半になるにつれて様々なことが身の回りに起きるようになりました。
 まず愛媛マンダリンパイレーツを受けて落ち、四国アイランドリーグのトライアウトは一次試験で落ちとしていましたが、ルートインBCリーグのトライアウトを2次試験まで受かり、縁あって福井ワイルドラプターズの個別トライアウトに誘って頂き、拾って頂くこととなりました。ここがかなりトントン拍子で決まっていき、びっくりした覚えがあります。
 その前後でクラブチームの兵庫県選抜に出場させて頂き、人生で初めてのホームランを打てたことも忘れられない思い出となりました。1打席頂いてそこで結果を出せたことはとても自信を持てる結果となりました。

HRの瞬間

 まさに集大成の様なシーズンでした。

最後に

 ここまで書いてきましたがもちろん書いてきたこの間に頭がおかしくなりそうなほど悩みましたし、嫌な記憶や常軌を逸する様な体験は当たり前ですがあります。正直もう一度同じ大学生活をしろと言われても僕は絶対したくないです。野球、勉強、バイトに板挟みとなって睡眠時間がどんどん無くなる生活でしたし諦めたことや捨てた選択肢もいっぱいありました。
 ですが僕は選んだ選択を後悔していません。人生を変えようともがいて呪いを解くように頑張ったことは僕の誇りです。
 読んで頂きありがとうございました!

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