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すいか #3

すいかの続編です。
#1 #2は下のリンクからお読みください。


 いつしか、健太は眠りについた。夏の日の思い出を夢に見ていた。祖母はそっと健太をソファーに寝かせ、タオルケットを掛けた。
 蝉の声を背にして、祖母は健太が通っている学校へ健太の所在を告げる電話をした。次に健太の母の携帯電話の番号を押した。
 留守電になっている携帯電話に、折り返し電話をちようだい、という旨のメッセージを入れると、祖母は受話器を置いた。
 眠っている健太を起こさないように祖母は静かに料理を始めた。健太が好んで食べた、鶏のささみ肉のフライを作った。夏休み、母に預けられた健太たちが昼食によく食べたものだった。久しくフライを揚げる音を聞いていなかった祖母だか、その音に祖母は小学生だった健太が無心でささみのフライを頬張る姿を思い出した。

 夜の帳が下り始めたころ、健太が夢から覚め、疲れで重くなった体を持ち上げた。
 「健ちゃん、お腹空いたでしょ。一緒にご飯たべよ」
 と言い、眠い目をこする健太をキッチンのテーブルに連れて行った。
 健太は食卓に並べられたフライを見て、懐かしさを憶えた。
 「おじいちゃん、死んじゃったでしょ。だから最近は、おばあちゃんもご飯はひとりなの。今日は健ちゃんと食べられてうれしいわ」
 と言い食べ慣れない祖母はフライに箸をつけた。

 健太は久しぶりに食べた温かい料理を噛み締めた。健太は衣が剥がれ落ちそうな形の悪いフライを掬うように食べた。

 祖母の家の電話が鳴った。祖母は受話器を取った。仕事を終えた母の声が受話器の向こうから聞こえた。
 「母さん、どうしたの?」
 と祖母に向かって母は言った。
 「健ちゃんが今、ここにいるのよ」
 「健太が?」
 と母は呆れたような声を上げた。
 「学校から抜け出して、びしょ濡れになってきたのよ。迎えに来てあげてちょうだい」
 と祖母は言ったが、母は、
 「分かったわ」
 と面倒臭そうに言って電話を切った。
 「ママが、迎えに来るって」
 と祖母か言った瞬間、健太の顔が曇った。

 健太はあの夏の日を求めて祖母の家に来た。救いの出口を求めて祖母の家に来た。
 健太はふと祖母の顔を上目で見て、
 「とうさん…、とうさんに会いたい」
 と小声で呟いた。 
 祖母は困却した。
 「とうさんって、どこにいるの?」
  と健太は続けた。
 祖母にとっては胸が塞がる健太の言葉だった。
   祖母は少し躊躇ったが、意を決してゆっくりと語り始めた…。
 「健ちゃん、健ちゃんのお父さんはね、天国にいるの。天国から健ちゃんたちを見守っているわ」
 と父の死を伝えた。

         ○

 健太の父は、健太が一歳半のころ、自らの命を絶った。ギャンブルが祟り、借金を作った。定職に就くこともなく、その日限りの暮らしを続ける父にとって、暮らしを覆すエネルギーはなかった。毎夜、酒に溺れる荒廃した家からは、父の怒号と健太の夜鳴きが交差し、夜の町に響いた。

 ある夏の暑い日、父は火照った体の体温を下げるように、体にコンクリートのブロックを括り山中の人気のない湖に飛び込んだ。
 ちょっと出掛けてくる、と言い残し、早朝に玄関を出た。
 見送る妻の後ろには赤ん坊の健太と兄が寄り添うようにベッドで寝ていた。
 車のドアを閉め、死へのキーを回した。
 軽く一回鳴らされたクラクションが永い別れの合図だった。
 幹線道路を暫く走ると、徐々に車の数が減ってきた。父は標識に従って、湖へ向かう山道を選んだ。左にウインカーを出し、ハンドルを切った。湖に導かれるように真っ直ぐに続く道でひたすらアクセルを踏んだ。山道に入り、覆い茂る木の下で父は何度も左右にハンドルを取られた。
 幹線道路に出るまでの細く穏やかな道。太く賑やかな幹線道路。木漏れ日さえ許さない曲がりくねった山道。それらの道は父の生涯をなぞるかのようであった。
 山道を登りきり、湖面が見えたとき、健太の父に躊躇いはなかった。湖の脇に車を寄せ、死へと導く錘を括り、飛び込んだ。

 捜索願を出してから三日経った夕方、健太の父の遺体が見つかった。ふやけきった遺体は直ぐに荼毘に付され、魂は紺碧の天に舞った。
 健太の父の突然の死に母は狼狽した。母は夫との生活を忘却させるかのように、思い出を燃やした。自分を甦らせる手段はそれ以外になかった。今は、家の箪笥に位牌だけが、丁寧に布に包まれている。
 健太の母は過去と決別し新しいシャツに袖を通すかのように生活を始めた。しかし、振り切れない過去が母を荒廃させた。

         ○

 祖母が初めて健太に父の所在を伝えた。
 健太は祖母の話を聞き終わると、祖母に抱きついた。
 零れ落ちる涙が祖母の皺のある腕を伝った。
 自転車のブレーキが鳴った。
 母が着いた。
木戸が強く開けられ、木が擦れる音がした。
「健太、ママよ」
 と母の声が響いた。
「ママが迎えに来たわ」
 と祖母が言った。
母は祖母の家の玄関を開け、
「母さん、ごめんね。すぐに連れて帰るから」
 その声を拉ぐかのように祖母はゆっくりと腰上げた。祖母は廊下の木の軋みを確かめながら玄関に向かった。
 キッチンに残された健太は凍えそうな自分を必死で抑え、二人の足音を聞いた。
 「芳子、上がっていって」
と祖母は促した。
 母は、もう遅いからと断ったが、いつもは見ない祖母の鋭利な目に従った。
 食器が残されたテーブルで祖母が切り出した。
 「健ちゃんに和夫さんのこと話したわよ。いつかは話さなければいけないことじゃない…」
 という祖母に、母は驚きを隠しきれず
 「どうして、どうして話したの?」
 と強く返した。母親は今にも狂乱しそうになったとき、健太の顔を確かめた。
 そこには母親をも包み込む強く優しい顔があった。
 母の心に安らぎが降りた。
 尊んだ様子で祖母は、
 「あなた、健ちゃんのこと、ちゃんと思っている?」
 と問うた。
 「もちろんよ。私の子だもの。愛しているわよ」
 と間を入れず母は答えた。
 「あなたが健ちゃんのこと、本当に愛しているなら、思っているなら……、もっと真剣に健ちゃんに向きあってあげて…」

 一度止んでいた雨がいつの間にか降り出していた。軒から落ちる雨が不規則なリズムを作っていた。健太は交わされる会話をなぞっていた。
 向きあう、という言葉が母の心に深く残った。

 そして母は、健太に縋り嗚咽した。久しぶりに健太の体に触れた母は、少し逞しくなった腕や胸を感じた。健太も久しぶりに母の肌の柔らかさを感じた。母の涙のように雨が激しくなった。
 「過去は過去。昔のことは忘れなさい。これから、三人で強く生きて…」
 と祖母は言った。
 母は、健ちゃん、ごめんね、と繰り返した。
 「もう、遅いから、帰りなさい。健ちゃん。また、おばあちゃんとご飯食べてね」
 と祖母は言い、二人を立たせて、玄関に送った。

 祖母は木戸を柔らかく開け、二人を先に門の外に出した。小さく手を振る祖母に見送られ健太と母は、祖母の家を後にした。雨も上がり、月が道を照らし、雨の匂いが微かに残っていた。二人は月に押されながら家路に向かった。母は自転車を押し、健太がその後を追い、真っ直ぐ続く道を明日へと歩いた。健太は家に着くと、ケーキおいしかったと、言った。
 母は優しい目をして、
「今度はもっと大きくて、丸いやつ、を買ってくるね。一緒にローソクも消そうね」
 と言った。
 健太の家の明かりが落ち、三人ともそれぞれの夢を見た。健太は夢の中では母、兄、そして父の夢とともに夜を過ごしていた。四人がキッチンのテーブルに座っている。健太の前には小太りの父が座っている。体ははっきりと健太に映っていたが、顔は輪郭だけで目や鼻はおぼろであった。健太は父の声を追った。その声につられ、母や兄は笑っていた。それぞれの笑いが塊となってキッチンを舞った。安らかな眠りは朝陽とともに終わった。

父も空に帰った。


つづく


読んでいただいてありがとうございます。
次回が最終回です。

取り止めのない話ですが、楽しみになさってください。


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