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すいか #2

すいかの続編です。
#1は下のリンクからお読みください。


 猛暑のせいで、朝から気温が高い朝。母は仕事に出かけ、家にはもう人気がなかった。健太はゆっくりと着替え、階下へ降りた。いつものような鼻をつく臭いはなかった。作りおきした朝食が置かれている代わりに、テーブルの上には小さなケーキの箱が置かれている。健太はこの朝、十五才になった。箱に近づき中身を覗いた。思わず笑顔になった。
 箱の中にはショートケーキが入っていた。少し温かくなったケーキを健太は頬張った。生クリームとスポンジケーキの感触が混ざり合い、イチゴの果汁が口の中に溶け出る。無心で頬張り、ケーキは瞬く間に健太の口の中に消えた。
 母の不器用な愛がテーブルの上に置かれていた。健太もその愛の形を感じた。学校へ向かう足取りはいつもより軽かった。

         ○

 廊下に笑い声や奇声が飛び交う休み時間に健太は学校に着いた。言葉と言葉の間をぬって健太は教室に着いた。自分の席を探し、重いカバンを下ろした。
 授業中であっても休み時間であっても、健太にとって違いはなかった。家と学校の往復を繰り返すことが暮らしだった。二時間目の始業を知らせるチャイムが鳴ると、生徒たちは次の休み時間への期待を残し、白けた授業を過ごす決意を固めた。
 高田が教室に入ってきて、生徒たちの会話が徐々に消えていったが、教室の人数が前の時限より一人増えていることに気付く者は少なかった。
 高田は前回の続きを淡々と説き始めた。高田の目は、何年も使っている表紙が手垢で黄ばんだ台本のようなノートと黒板の間を往復している。
 時折、どもり、アドリブを効かせる訳でもなく授業を進める教師の目には明らかに生徒への怖気があった。高田は生徒の突発的な質問によって、自分が正体が暴かれることなく授業が終わることを祈っていた。
 多くの生徒はそれを察していて、この教師から知識の享受を求めていなかった。崩壊すらしない教室には虚無に高田の声だけが流れていた。
 しかし健太はほかの生徒のように教師を探ることを知らなかった。終業のチャイムがなると同時に高田は台本を閉じ、足早に教室を後にした。

 授業中に降り始めた雨は強さを増していた。遠くの空に閃光が見えた。
 教室にいる誰もが、夏の一礼に興奮した様子である。一人で雷鳴を聞くのとは違う、一体感を共有し興奮の度を増していく。ある者が突然、窓を開け、教室に吹き込む雨を髪に浴び、シャンプーのときのように髪を掻き毟った。その生徒は教室の中に振り返ると、滴り落ちる雨水を気にすることなく、「気持ちいーっ」と叫んだ。
 女生徒たちは稲光が轟音とともに教室を照らすたび、体を寄せ合って悲鳴を上げるが、心なしか喜んでいるようであった。
 健太は、臆することなく席に佇んでいた。
 いっそう勢いを増す稲光と雷鳴は、健太が祖母といた夏の日を思い出させた。

         ○

 小学校低学年のころ、夏休みの間、健太と兄は祖母の家に預けられて、そこで日中を過ごした。祖母の家が近くにあったので、毎朝、母は健太と兄を自転車の前と後ろに取り付けられた子ども用のシートに乗せ祖母の家まで送りに行った。
 「母さん、いつもごめんね。今日もお願い。なるべく早く帰るから」
 といい、二人の兄弟を預けた。
 「健ちゃん、公ちゃん。いい子で待っててね。晩ご飯はカレーだよ」
 といって、仕事に出かけた。
 祖母は健太たちが来るときには、すいかを用意していた。陽が高くなる前の夏の日の午前、健太たちは、すいかを頬張った。祖母はスイカに塩をかけていたが、健太にはそれが不思議であった。
 祖母の家にいたある日、健太が縁側でマンガを読んでいると、空が灰色を帯びるとすぐに、雨が音を立てて落ちてきた。いくつもの水滴は地面を打ちその跳ね返りが健太の足に当たった。健太は軒先から零れ落ちる雨水を口を大きく開いて落ちてくるのを待った。
 「健ちゃん。汚いから、やめな」
 という祖母の声を無視して健太はゲームのように雨水を求めた。体を左右に動かし、いくつもの雨水を拾った。
 それにつられるように兄も軒先に向かって口を広げた。
 兄の気持ちの高ぶりは軒先の向こうの庭へと兄の体を導いた。兄は降り頻る雨を全身で浴びた。触発され、健太も続いた。
 兄弟は飛び跳ねながらはしゃぎあった。
 見かねた祖母は、強いて二人を家の中に連れ戻した。祖母は体に張り付いた衣服を丁寧に脱がせ、真っ裸になった二人の体を拭いた。
 健太は露出された兄の性器に興味を抱き、
 「チンチン。チンチン。お兄ちゃんのチンチン」
 と騒ぎ立てた。
 呼応するかのように兄も、チンチンと騒ぎ立てた。いつしか二人は拙い言葉を連呼しあっていた。祖母はただ黙って二人の体を拭いた。

 雨が上がり、アスファルトの水が太陽に照らされ、夕方を迎えるころ、二人は車道に出て、目を大きくして母の帰りを待った。
 遠くから自転車に乗ってくる人の姿が近づくたび、二人はそれを母だと思った。二人の期待がそうさせた。遠くに見えた幽かな人影が大きくなり、母ではないことが分かると二人は落胆の声を上げた。二人、三人と、兄弟にとっては期待しない人物が続いた。西陽の影が長くなるにつれて、二人に寂しさが襲った。
 先に母に気付いたのは健太だった。母は太陽を背に、祖母の家に向かって自転車を漕いでくる。
 健太は、ママだ、と歓びの声を上げた。母の姿が露になるにつれて、二人は安心感に包まれた。
 ブレーキの音とともに二人の目の前に現れた母の額には汗が滲んでいて、自転車のかごからはスーパーで買ってきたと思われる夕食の食材が零れ落ちんばかりに積まれている。
 「健ちゃん、公ちゃん、ただいま。仲良くしてた?おばあちゃんの言うこと、ちゃんと聞いた?」
 と母は言うのだが、二人には嬉しくてたまらず、母に縋り付いた。
 母は祖母に向かい、いつも、ありがとう、と言い、二人を自転車の前後のシートに乗せて、家路へと向かった。急に重くなったハンドルに少しよろめいたが、慣れたものてで母は徐々にスピードを上げ、家路にむかった。 

         ○

 雨はまだ降り続いていた。台風の余波のせいで風も強くなっていた。緑の葉々が窓に打ちつけられていた。休み時間の喧騒を越え、教室には教師の声が響いていた。
 健太はあの頃の夏の日を思い出していた。兄と雨の中、戯れた夏。祖母が切ってくれたすいかを頬張った夏。母の帰りを心待ちにしていた夏。母の優しい目、声。
 健太の心は健太を降り頻る雨の中へと向かわせていた。健太は突然席を立ち上がった。生徒たちは健太の行為を気にすることはなかった。高田も、一瞬声を止めたが、教室を出る健太を見届けると、授業を始めた。
 健太は、廊下を駈け、階段を下った。
   徐々に速度を増し、最高潮になると同時に健太はグラウンドに出た。グラウンドにはいくつもの水溜りができていたが、健太は気にすることなく走り抜けた。水溜りを踏みも雨水が靴に入り、ぐしゃぐしゃと音を立てる。
 校門を抜け、夏の思い出が詰まった祖母の家に向かって傘も差さずに無心に走った。雨水を吸い重くなったシャツが健太の体温を奪った。健太は走り続けた。二つの町を越えるころ健太の体や衣服からは無数の雫が滴り落ちていた。衣服についた雨水の重さで体力を奪われてよろめきながらも健太は走った。健太を覆う雨水の感触は健太に兄と戯れた祖母の家の庭を思い出させた。
 息急き切って祖母の家に着いた。健太は、ばあちゃん、ばあちゃん…、と何度も叫びながら祖母の家のチャイムを鳴らした。
 しばらくして玄関のドアが開いた。祖母は、目の前にいるびしょ濡れの健太の姿に言葉を失い、すぐに家の中に入れた。

 祖母は健太を真っ裸にして、無言でバスタオルで健太の体を包みこむように拭いた。健太はそれを隠すことなく祖母の身を任せた。大きなタオルの中にいる健太は安心感に包まれた。
 雨音は静かになっていた。いくつかの蝉が鳴き始めていた。
 健太の汗と雨水が拭き取られると、祖母は健太にジュースを一杯与えた。健太はコップを両手で持ち、一気に飲み干した。
 「健ちゃん、どうしたの?」
 と祖母が始めて口を開いた。
 いしつか、健太の目には涙が溢れていた。
 祖母を見つめ、
 「寂しくなった。だから、ばあちゃんのところに来た」
 と答えた。
 「寂しくなった?寂しいことなんかないでしょ、学校には友達だっているし、先生だっているでしょ。家に帰れば、お母さんだって、お兄ちゃんだっているじゃない」
  沈黙のあと、健太は祖母の目を見つめた。
  そして祖母の胸に飛びこみ、押し殺された声で言った。
 「先生は僕のこと、相手にしてくれないんだ。お母さんも。ずっと前の夏休みは楽しかった。お母さんも優しかったし、お兄ちゃんとも遊んだ」
 しばらくすると雨は止み、祖母は健太の背中を摩った。

つづく


読んでいただいてありがとうございます。
次回に続きます。

楽しみになさってください。


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