パナマソウの高貴な生活

霧雨51号
テーマ「翻訳」
作者:鮎川ツクル
分類:テーマ作品

 休暇をサントーリスト・シティで過ごすのは悪くない考えだった。雄大な海と色とりどりの水着が映える砂浜を右手に、ぼくのフィクスン・ダンパー1994は快走していた。道路の真ん中に植えられたヤシは、風で左右に揺れていた。都市生活者の夢想がパッキングされている観光都市。街全体がボサノバか、そういったチル系の音楽に包まれていた。
 タバコに火をつけて、灰皿に置く。窓を開けて腕をだらしなくもたれかからせ、大きく息を吐く。
「この潮風と紫外線が〈肌〉を蝕む感じがたまらないわ」
 隣に座らせているパナマソウ〈マダム・ボタニカ〉は言った。海産物ではなく、灼けた日差しの香りがした。
「葉焼けしないの」
「ちょっとぐらいなら大丈夫よ」
 鉢の側面に取り付けられたスピーカーから合成音声が流れる。子供がふたりぐらいいそうな女の声。
 予約していた海辺のレストラン前に車を停める。まだ夕方だというのに、でかでかとネオンサインを焚いていた。ぼくはマダムに正確にレストランの外観を伝える。あー……ハリケーンを経験してそうで……ゲストハウスみたいで……云々。
 ドアを開け中に入る。タバコと酒と、音楽が陰圧になった外界へと心地よい風となって吹き抜けた。マダムの重たさがじんわり腕に染み込んでいく。
「予約していたものだが……」
 奥のデッキ席へと案内される。すでにカウンターには労働を終えた地元の男たちでいっぱいになっていた。植物のプランターを持った奇怪な男には目もくれず、それぞれ、ゴシップと酒と、ゆるやかなやさしさに埋没していた。沈んでいく太陽光線が店内を隅々まで照らしていた。ぼくは一瞬でここが気に入った。
「海の上に柱を立てている。チャドメヤシが涼しげな印象を作っている。簡単なつくりがまた心地よい。潮風は純粋で……遠くにタンカーが見える。夕日を横切っている」
 ぼくはマダムに逐一景色を説明してやる。空気の振動を葉で感じとり、マダムにも〈理解できる〉電気信号に変換されたのち、逆のプロセスでマダムの〈言葉〉は再生される。
「素敵ね」「何食べてるの」
「なんだろう……ただの前菜だけど、なんかすごくおいしい。酸味を使ったおいしい食事なんて店じゃないと食えないからな」
 ぼくはボーイを呼びつけ、ジュークボックスで流す音楽をリクエストする。
「何がいい?」
「わたし〈枯葉〉」
「ここまで来てジャズをきくの」
 ジュークボックスが操作されるところを見ていた。次の料理が来た。波音を聞いているとアンニュイな全能感に包まれた。〈枯葉〉のテーマがぱっと流れてきた。マダムは満足そうだった。
「そろそろ君も飲みたいころだろ」
 ぼくは海水をコップに汲んだ。「ソーダ水で割るかい、いつもみたいに」
「ええ」
 マダムの鉢に海水を注いだ。土は湿り気をもって、雨のにおいがわいてくる。
「ア、ア……」
 ぼくはマダムと出会ってまもないころを思い出す。種族間を超えたコミュニケーションへの夢想は大々的ではないにせよ、人類の脳みその片隅にはいつも存在していた。マダムはその結晶だった。
 ぼくはマダムを〈誘拐〉し、言葉を手取り足取り教えた。そのたびに、マダムが変化していくことをとめることはできなかった。言語は受け継がれていく呪いの紋章だった。ぼくに染みついていた呪術的なものをそっくりそのままマダムは受け継いだ。

 翌朝、マダムは絶命していた。切れ込みの入った手のような葉、植物体自体は美しいままだったが、こちらの呼びかけにまったく応答しない。すべての電気信号が消失していた。時計をみて、医者のように死亡を告げた。
 ぼくは朝食も取らずに海辺へ繰り出した。タバコに火をつけた。初めて吸ってみた。肉体のすべてでもって煙を吐き出そうと必死になりぼくはせき込んだ。すこし吐いた。やっぱり吸うもんじゃないな、タバコの火をマダムの土でもみ消し、マダムを海に投げ捨てた。水しぶきが上がり、横転したパナマソウは行ったり来たりを繰り返しながら、沖へと運ばれていく。
 ぼくは間近でヤドカリが貝殻から貝殻へと引っ越している最中であることに気づいた。しゃがんでずっと見つめていた。引っ越しは一瞬だった。近くに図太そうなカモメがいたが、ぼくがいたせいかこちらには向かってこなかった。
 

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